『言継卿記』(ときつぐきょうき)


 「信長の野望」(KOEI)というゲームをご存じだろうか。パソコン創成期に登場した歴史シュミレーションゲームで、今日でも新作が作られ続けているベストセラー商品である。ゲームの中にはたくさんの戦国武将が登場するが、「朝廷工作」というコマンドでは天皇や取り次ぎ役の公家も顔を見せる。その一人が山科言継。ここに紹介する『言継卿記』の記主である。
 言継が生まれたのは永正4年(1507)、京都では政権を担っていた細川政元が家臣らに殺され、東国では関東管領上杉顕定の弟で越後守護の房能が家臣長尾為景に攻められ自害した年。没年は織田信長が明智光秀に殺される三年ほど前の天正7年(1579)であるから、その人生はまさに戦国の混乱の中にあったと言って良いだろう。
 言継の日記は21歳の大永7年(1527)から70歳の天正4年(1576)まで50年間に及ぶ。その間、計10年余の記事を欠くが、記録期間の長さという点では平安時代の『中右記』(藤原宗忠)、鎌倉時代の『明月記』(藤原定家)、室町時代の『実隆公記』(三条西実隆)に匹敵する。内容の充実度もこれらに引けをとらない戦国期を代表する日記である。日記はすべて自筆本で残っており、東京大学史料編纂所に日次記35冊、京都大学附属図書館の菊亭文庫に別記1冊、天理大学附属天理図書館に別記3軸が所蔵されている。そのほとんどに紙背文書(約2900通)があり、これも貴重な史料となっている。江戸時代末期に子孫の山科言知によって作成された写本が宮内庁書陵部にあるほか、内閣文庫などにも明治期の写本がある。
 山科家は北家藤原氏の一流である末茂流藤原氏で、14世紀前半ごろから山科の家名を称した。後白河法皇の愛妾丹後局高階栄子と平業房との間の子教成が後白河院の命によって藤原実教の嗣子となり、後白河院の山科御所とその周辺の地を伝領して子孫に伝えたことから、そこが家名の地となった。家格は近衛次将を経て公卿に列する羽林家で、権中納言を極官とする中流貴族である。言継が権大納言に昇っているのはこの家にとって異例のことで、日記の中で言継は奈良時代の魚名以来十三代中絶の出来事であると述べ、「満足の至り、手舞足踏みを知らず」と手放しに喜んでいる。山科家は、代々蔵人・弁官や摂関家家司として日記をつけて祖先の日記からの引勘を職能とする勧修寺流藤原氏や高棟流桓武平氏のような「日記の家」ではないが、他の公家同様「家の日記」を伝えている。教言の時代、応永12年(1405)の火災でいったん累代の記録類を失ったが、教言・教興・言国・言継・言経・言緒ら歴代の当主が書いた室町時代から明治初めに至るまでの日記が現存し(自筆本は宮内庁書陵部・京都大学附属図書館・東京大学史料編纂所などが所蔵)、さらに大沢久守ら山科家に仕える雑掌の業務日誌である『山科家礼記』、関連する多くの文書も残されている(宮内庁書陵部・国立歴史民俗博物館・国立公文書館内閣文庫が所蔵)。日記は記主ごとにも個性があるが、家に伝わる父祖の日記に学びながら書いたから、家ごとの書きぶりや持ち味があらわれる史料でもある。山科家の日記の場合は、日付・干支、天候を記したあと、項目ごとに一つ書き(箇条書き)していく書様を大きな特色としている。
 山科家は南北朝期の教言以降、内蔵頭を独占的に世襲して、天皇の御服調進の役割を担った。言国のころから元服と同時に内蔵頭に任じられるのが例となっており、言継も14歳で内蔵頭になっている。役所としての内蔵寮はすでになかったが、内蔵頭が織手などの職人や食物を貢進する供御人を支配下に置く形で実体的な機能を有し、内蔵寮領と呼ばれる所領も存続していた。言継は自らも染めや仕立ての技術を習得して妻や家人とともに装束製作に当たり、天皇の服ばかりでなく諸家からの注文にも応えた。装束の着付けを行う衣紋道を家業とするようになるのも言継のころからである。器用な言継は医術や調薬も修めていて、しばしば人々の依頼を受けて診察したり、薬を調合して届けている。家領荘園からの収入が途絶えがちで苦しい公家の財政事情の中で、言継の技能は山科家の収入を支えた。
 言継の活動の場は、家の中だけではない。摂関家以外の公家にとって一番大事な仕事は内裏に祗候・宿直をする禁裏小番であった。公家たちは天皇との親疎の違いによって内々衆と外様衆とに分けられ、それぞれ5〜6番に編成されて毎日3〜4人ずつ交代で祗候した。内々衆と外様衆では祗候する場所が異なり、この違いは彼らの公家社会におけるステータスの違いでもあった。言継(山科家)は内々衆に属し、月に5・6日の勤めをこなした。それ以外にも天皇からの召しがあれば出かけたし、地方に下ってしまった同僚の代理として勤務することもあった。言継は毎日のように出かけているし、来客も頻繁である。公家や内裏女房、僧侶たちとの交遊に忙しい日々を過ごしていた。賭事に興じる一方、和歌や連歌の会、書籍の貸し借り・書写と、文芸・学問にもいそしんだ。日記の中には連歌師紹巴や絵師狩野永徳なども登場する。内裏に行ったときには必ずと言っていいほど長橋局や台所・内侍所などの女房の詰め所に立ち寄っている。女房主催の酒宴や花見などにも参加し、日常的な贈答・会食も怠らない。とりわけ言継の武器は薬の進上である。天皇家の金銭・物品の出入りを管理し、天皇への申次を担当していた長橋局や天皇を取り囲む女房衆の頂点にあった大典侍局らとの交際は公家社会で生きていくために不可欠であった。
 戦国大名の動向や彼らとの交流の記事も『言継卿記』の魅力の一つである。その中には若き日の木下藤吉郎の姿も見いだせる。京都や畿内をめぐる足利将軍家、細川家、三好勢、本願寺勢力の相剋、そして永禄11年(1568)、かつては「異形の者多し」とさげすんでいた織田信長勢の上洛。旧領回復を訴えて信長のもとに日参し、二条城普請を見舞い、元亀2年(1571)の叡山焼き討ちに、仏法の破滅と支えを失った王法(天皇を中心とする朝廷政治)の不安を感じながらも、揚々と入洛した信長を見舞う言継の姿には、弱者と化した公家の悲哀を感じる。それでもなお、文化的優位性や天皇の権威を背景とした力は有していた。天文2年(1533)言継は尾張で織田信秀(信長の父)らの歓待を受けて和歌や蹴鞠の指南をし、弘治2年(1556)には老母が世話になっている駿河今川氏を訪問している。地方への土産で喜ばれたのは勅筆の短冊や書籍・香などであった。永禄12年(1569)の後奈良天皇十三回忌の仏事に際しては、費用捻出を徳川家康に依頼すべく極暑のなか三河へと旅立ち、途中岐阜で信長の慰留を受けてそのままひと月滞在し、彼の仲介で銭2万疋分(20万枚)の為替を得て帰京の途についている。
 また、自家の家人・下女、家に出入りする武士や商工業者、家領の住人、近所に住む庶民などいろいろな人々の動きについて書き留めている点も興味深い。儀式遂行のためのマニュアルという性格の強い中世前期の貴族の日記には見られない、良い意味での雑多さが『言継卿記』にはある。
 戦乱の中にあって、一方でその影響を受けて動揺し、一方ではそれと途絶しているかのように淡々と過ぎていく公家の日常。じっくり読んでいくと、戦国時代の公家社会とそれをとりまく様々な世界が浮かび上がり、大名の抗争史とはまた違った時代像が見えてくる面白い史料である。

〈記録期間〉大永7年(1527)〜天正4年(1576)
〈記主〉山科言継
〈巻数〉日次記35冊、別記4冊(うち3冊分は巻子に改装)が現存。
〈伝本〉自筆本のほかは、江戸末期以降の新写本。古写本は勧修寺家旧蔵の別記1冊(菊亭本の写)が知られる程度。

〈関連資料案内〉
活字本4冊が大正時代に国書刊行会から出され,昭和40年代に続群書類従完成会から刊行された『新訂増補言継卿記』4冊(未完)も長らく品切れになっていたが、昨年、後者の未刊部分を前者で埋める形で続群書類従完成会より復刊された(全6冊)。『天理図書館善本叢書 古道集』(八木書店)には天理図書館所蔵分の影印が収められている。案内書には今谷明『言継卿記―公家社会と町衆文化との接点―』(そしえて)があり、山科家については菅原正子『中世公家の経済と文化』(吉川弘文館)がもっとも詳しい。


                                              (『歴史読本』1999年6月号より)