『台記』(たいき)


 藤原頼長の日記。日記の名は頼長の極官が左大臣であったことから、大臣の異称「三台」による。まとまった日次記が残るのは保延2年(1136)から久寿2年(1155)で、日次記とは別に各儀式・行事に関して詳しい記述を行った別記8巻、抄出本の『宇槐記抄』が伝わる。自筆本は伝わっておらず、宮内庁書陵部や東京大学史料編纂所所蔵の鎌倉〜南北朝時代の古写本のほか、江戸時代の新写本が各所に所蔵されている。
 頼長は摂関家の出身で忠実の二男、兄忠通が父に義絶された後は藤原氏の氏長者、内覧となったが、忠実・頼長父子は、当時の為政者鳥羽院・美福門院・忠通らと対立、保元元年(一一五六)七月、鳥羽院の死去によって両グループを押さえていた重石がはずれると対立は表面化して保元の乱が勃発した。
 頼長を一方の主役とする保元の乱に至る政治動向を知る上で欠かせないことは勿論であるが、大嘗会や読書始などの儀式、入内や元服、春日社・賀茂社参詣などについての詳細な別記は有職故実の貴重な史料ともなっていて、最近では妻幸子と養女多子の叙位をきっかけとする家政機関設置や命名に関するまとまった記事が注目されている。康治2年(1143)9月の日記の最後には保延2年(1136)以降八年間に学んだ漢籍1030巻の書名が列挙してあり、「日本第一の大学生」と評された頼長の学問への取り組みのすさまじさが窺われる。頼長の強烈なまでの個性は、赤裸々な男色記事や、非常赦によって放免された殺人犯を「天に代わって」暗殺させたことを告白している記事にも表れている。父忠実に愛されて兄忠通に代わって後継者とされていく悦びを記す一方、権力者であった鳥羽法皇らに疎外されていく心情を屈折的に日記に吐露している点、子息等に対する熱心な教育ぶりや教訓も、この日記を人間味あふれるものにしている。
 『台記』もその後の貴族社会にかなり広く流布しており、鎌倉時代末期の花園天皇の日記には、天皇が『台記』を愛読し、同じく勉学を志す者として強い影響を受けていたことが記されている。
 刊本は増補史料大成(臨川書店)、ただし一部に未翻刻の巻もある。史料纂集(続群書類従完成会)は第1巻のみ既刊。大島幸雄編『台記人名索引』(私家版)、橋本義彦『藤原頼長』(人物叢書、吉川弘文館)が参考になる。