『山槐記』(さんかいき)


 藤原忠親の日記。日記の名は晩年の称号の中山内大臣による(「槐」は大臣をさす)。中山内府記・深山記とも呼ばれる。まとまった伝本が残るのは仁平元年(1151)から文治元年(1185)であるが、逸文として伝わるものも多く、出家した建久5年(1194)まで日記を残していたことが確認されている。自筆本は伝わっておらず、鎌倉時代の古写本が宮内庁書陵部に一軸、室町時代のものが国立歴史民俗博物館などに所蔵されている。
 忠親は藤原忠宗の子で、近衛・後白河天皇時代には蔵人を勤め、二条天皇の蔵人頭として活動、後白河院の別当にも任じられた。安徳天皇や平徳子にも仕え、平時忠を聟とするなど平家と親しい立場をとったが、平家滅亡後も失脚することなく、源頼朝の推挙した議奏公卿の一人にも加えられている。
 平清盛の時代から治承寿永内乱期にかけての政治動向もさることながら、故実家としても著名であった忠親の日記は儀式について詳しく、私事についても親代わりとなっていた妻の兄弟たちとの交流や女児の人身売買など興味深い記事がある。忠親がこのような詳細な日記を残したのは、父忠宗の日記を兄忠雅が秘蔵していて永暦元年(1160)まで披見を許されていなかったことにも一因がある。忠親が新たな「家」を興し子孫に伝えて行くには自身でその礎となる詳細な日記を残すことが必要であった。それに対して、父の日記を相伝した忠雅は自身の日記を残していない。
 『山槐記』が公事のテキストとして優れたものであったことは、多くの部類記に引用されているほか、『元日節会部類記』『政事部類記』『政始部類記』『諸院御幸部類記』など、この日記のみを抄出した部類記が多数あることからもわかる。公事に関心をもっていた後鳥羽上皇が、忠親の子孫のもとにあった『山槐記』を召して写本を作らせ、後白河院以来の宝箱である蓮華王院の宝蔵に納めていたことも知られている。
 刊本には増補史料大成(臨川書店)があるが、未収の逸文も多い。まとまったものでは国立歴史民俗博物館所蔵の応保2年3月巻(康正2年山科顕言書写)が未刊。室町時代、子孫の中山定親が『山槐記』の有職故実関係の記事を抜き出して編纂したものに『達幸故実抄』(群書類従所収)がある。

※『国書総目録』(岩波書店)は東京教育大学所蔵として応永32年写、30冊を掲げ、『国史大辞典』(吉川弘文館)や解題類も筑波大学所蔵室町期古写本の存在を指摘していましたので、このページでもそのように記載していました。しかし、冊数があまりに多いなど、疑念が拭えず、筑波大学図書館に問い合わせましたところ、回答を戴きました。それによると、目録では確かに応永32年写となっていたものの、実際は江戸時代前期写で延宝年間の大炊御門経光の書写奥書があるとのことでした。そこで本ページの記載を修正するとともに、その旨を報告いたします。わざわざお調べいただいたレファレンス係の平井裕美氏にお礼申し上げます。