『看聞日記』(かんもんにっき)


 嘉吉元年(1414)6月24日、室町幕府第六代将軍足利義教が守護大名赤松満祐・教康父子の手にかかって果てた。赤松追討をかねてより考えていたところ、逆に先手を打たれたのだという。将軍が酒宴の席で殺されるという前代未聞の出来事を聞き、「自業自得の果て、無力のことか。将軍のかくのごとき犬死に、古来その例を聞かざることなり」と日記に書き留めた人物がいる。
 名は貞成。時の天皇、後花園の実父に当たる人物である。その日記を『看聞日記』という。記主自身が命名した書名のとおり、見聞きした様々な出来事、皇位継承や幕府周辺の政治的動向から庶民生活、説話的な噂話までが書きつづられており、バラエティーに富んだ内容という点では屈指の記録史料と言えるだろう。同時期の『満済准后日記』と並び、室町時代前期を代表する日記である。
 応永23年(1416)から文安5年(1448)までの日次記41巻、応永15年の『北山行幸記』以下の別記13巻、包紙類を集めた附巻1巻が自筆本で伝わっている。これらは子孫の伏見宮家に伝来し、現在は宮内庁書陵部の所蔵となっている。そのうちの半数弱の巻は一度使われた紙の裏が再利用されており、紙背文書と呼ばれる日記料紙裏の文書の日付を見ると、応永32年以前の部分は日記の年紀よりも新しい年紀を持つものが多数ある(たとえば応永32年の文書の裏に応永29年の日記が書かれている)。これはその部分の日記が貞成自身の手によって後に清書し直されたものであることを示している。
 貞成王は応安5年(1372)に栄仁親王の第二王子として生まれた。栄仁は崇光天皇の第一皇子であったが、南北朝の内乱の中で即位の機会を逃し続け、京都の南郊、伏見殿で不遇の日々を過ごしていた。この時代、皇嗣以外の子弟は幼いころから出家して寺に入るのが普通であったから、長い間在俗のままでいたことは極めて異例である。貞成の兄治仁王もやはり在俗の身であった。なお不安定な政情の中で、皇位の機会をうかがっていたのだろう。それに対して弟の貞成は聖護院に入室することが予定されていた。しかしこれも沙汰やみになり貞成も俗体で過ごすこととなる。不遇な宮家の次男坊、全く目の出そうにない人生の始まりである。そのため「堅固の密儀」として彼の元服が行われ、「貞成」の名が付けられたのは、なんと40歳になった応永18年(1411)だった。天皇の諱の通字である「仁」を避けた名付けも世間をはばかってのことである。元服後、貞成は養育を受けていた今出川公直の邸宅から伏見の父の許へと居を移した。
 この応永18年の元服については貞成自身がその筆で『栄仁親王琵琶秘曲御伝業並貞成親王御元服記』一巻を残している。ところが、5年後の応永23年の日次記巻首の原表紙には「日記、今年よりこれを書き始む。以前は書かず。この年、大通院の御事あり」とある。「以前は書かず」と言っているのに、『元服記』や応永21年の『称光天皇御即位記』など、23年以前の日記が存在していることになる。しかしこれらは特別な場合に一日分もしくは数日分を限定的に書いた記録で、様々な日々の出来事をつづった日次記に対して別記と呼ばれるものである。「今年よりこれを書き始む」とは日次記を書き始めたことを指すのだろう。父栄仁(大通院)の死はこの年の11月。正月からすでに病のことが見えるから、父の死をある程度予期しての起筆だったのかもしれない。
 兄治仁が父の遺跡を相続したのもつかの間、翌年2月に急逝した。治仁には男子がなかったため、貞成がその跡継ぎとなった。彼自身にようやく光明が射してきた喜びを、その日の日記に「不慮の儀、かつがつ神慮なり」と記し、これも父に忠孝を果たしたので冥加があったのだと述べている。ところが貞成の相続を快しとしない近臣から治仁毒殺の噂が広まり、上皇・将軍の耳にも達した。降って沸いた継嗣に世間の疑惑の目が向けられたのである。しかし、いつしか噂も立ち消えとなり、「家」の長としての貞成の生活が始まる。
 政治情勢に左右されて皇位には就けなかったものの、崇光院の第一皇子栄仁に始まるこの「家」には大きな財産があった。それは持明院統の嫡流として相伝した後深草天皇や伏見天皇の自筆日記をはじめとする膨大な書籍と、天皇家の音楽の「家」としての側面を象徴する累代の名器(楽器)・楽書である。貞成自身も父やその弟子今出川公行から琵琶の秘曲伝授を受け、朗詠も秘曲伝授を受けるほどであった。そのため『看聞日記』には音楽・芸能・文芸を通した近臣たちとの交流を示す記事が多く、貞成の関心は伏見の郷で繰り広げられた風流・松ばやしなどの庶民の芸能にも注がれている。また公家たちの社交場となる連歌や和歌の会も頻繁に開かれた。毎月行われた連歌や和歌の会での作歌・作者を書き留めた懐紙が日記の料紙に多く用いられているのは、懐紙類の散逸を防ごうとした貞成の意図によるものである。
 48歳になった応永26年には待望の男子が生まれる。当時の天皇家は称光天皇を立てて父の後小松上皇が院政を行う体制をとっていたが、称光天皇は病弱で子がなく、弟の小川宮が東宮になっていた。しかも上皇と天皇、天皇と東宮の関係は険悪であった。そんな中で応永32年小川宮が亡くなる。次の皇位は誰が嗣ぐのか、人々の注目を集めたのが貞成父子であった。貞成自身もこのままでは終わりたくないと思ったのであろう、後小松上皇に先祖の自筆日記を贈るなど上皇・幕府に対しての働きかけが始まり、まずは貞成自身の親王宣下が実現する。貞成親王を後小松上皇の養子ということにして次の天皇に立てる、後小松と貞成の思惑は一致したが、これには称光天皇が反対した。それに代わって浮上してきたのが子息の彦仁の擁立である。後小松院は彦仁の将来と引き替えに貞成の出家を要求し、貞成もこれを受け入れた。正長元年(1428)7月、称光天皇は危篤に陥り、そのさなかに後小松院は彦仁を養子として皇位継承者に指名する。そして称光の死去。ここに伏見宮家五十年の悲願が達成された。後花園天皇の誕生である。
 貞成は天皇の実父として太上天皇になる望みを胸に秘めながら、学問に興味を持つ若い後花園天皇に家伝の書籍を贈り続けた。そして崇光院流の苦渋の歴史と誇りを伝えるべく書き上げた歴史書・教訓書が『椿葉記』である。宮内庁書陵部の伏見宮家旧蔵書の中に二種類の草稿本が残っており、『看聞日記』の記述と合わせると、この書を書き上げ、天皇となった息子のもとに届けることがいかに難しかったかがわかる。これが後花園天皇の目に触れたのは第一稿の清書から2年半後の永享6年(1434)のことであった。そして『椿葉記』の中でも吐露した太上天皇宣下の望みが叶ったのは文安四年(一四四七)、妻の幸子に敷政門院の女院号が与えられ、その慶び申しをした文安5年4月7日に貞成親王は日次記の筆を置いている。


〈記録期間〉応永15年(1408)〜享徳2年(1453)
〈記主〉後崇光院貞成親王
〈巻数〉日次記41巻、別記13巻、附巻1巻が現存する
〈伝本〉宮内庁書陵部に自筆本が伝わるほか、江戸時代・明治時代の写本が各所に存する


〈関連資料案内〉
日次記が『続群書類従補遺二 看聞御記』全2冊(続群書類従完成会)、別記や紙背文書も『図書寮叢刊 看聞日記紙背文書・別記』(養徳社)として刊行されているほか、貞成関連の文書が『書陵部紀要』19号に掲載されている。昭和9年に宮内省図書寮から出された44巻のコロタイプ複製は今や貴重書であるが、これに付された釈文には続群書類従完成会本にはない裏書も翻刻されている。横井清『看聞日記―「王者」と「衆庶」のはざまにて―』(そしえて)は今やこれなしに『看聞日記』は語れないと言うほどの一冊。『証註椿葉記』(村田正志著作集第四巻、思文閣出版)位藤邦生『伏見宮貞成親王の文学』(清文堂)も参考になる。

(『歴史読本』1999年5月号「歴史記録への招待」より)