『兵範記』(へいはんき・ひょうはんき)


 平信範の日記。極官である兵部卿と信範の名をあわせて兵範記といい、また信範の二文字の偏をとって人車記とも呼ばれる。記録期間は天承2年(1132)から元暦元年(1184)。大部分が自筆を中心とする清書本で、陽明文庫に29巻、京都大学に25巻が現蔵されている。清書本には含まれていない平治元年(1159)10月、仁安元年(1166)9〜11月の巻を含む藤原定家等書写本14巻が三の丸尚蔵館に所蔵されているほか、新写本が各所にあるが、晩年の日記は歴代残闕日記所収の『信範卿記鈔出』や逸文として知られるのみである。
 信範の家系は高棟流桓武平氏で、親信・範国・行親・定家・知信・時信ら代々が、蔵人・弁官などの実務官人として、また摂関家家司として日記をつけ、祖先の日記を相伝し、必要に応じてそれらの日記をもとに先例の勘申を行うことを求められたため、世に「日記の家」と称されていた。親信らの日記は『平記』と総称され、信範の書写本が陽明文庫と京都大学に所蔵されている。信範自身も少納言・蔵人・弁官を歴任し、鳥羽院・後白河院の院司、摂関家の家司も勤めていたから、その日記は鳥羽院政期後半から後白河院政期の歴史を考察する上で不可欠のものである。保元の乱の経過や信範が摂関家家司としてその任にあたった戦後処理、後白河天皇のもと王土思想にもとづく荘園整理を宣言した保元新制、平氏に西国海賊追討権を認めた仁安宣旨などは『兵範記』の中でも特に著名な記事であろう。儀式に関する信範の筆は極めて詳細で、少納言時代の外記政に関する記事などはいかなる儀式書も及ばないほどである。摂関家の人々の動向についても詳しく、家政に関する記事の豊富さは他に例を見ない。家族や親族に関する記事も多い。また通常では残されることの少ない文書が引用されていることも多く、その発給手続きに関する記事とともに注目される。
 表の日記と並んで重要なのが厖大な紙背文書で、摂関家の政所別当や蔵人頭在任中に信範の手元に蓄えられた文書が日記の料紙に使われており、摂関家の訴訟制度のあり方や蔵人頭の職掌の一端が文書からわかる点で貴重である。  信範の清書本は南北朝期以前に主家である近衛家によって召し上げられたが、江戸時代前期になって信範子孫の平松時量の懇望により近衛基熈から平松家に『平記』の一部とともに分与された。これが現在の京都大学所蔵本である。
 刊本は増補史料大成(臨川書店)にあるほか、陽明文庫本『人車記』の影印本が陽明叢書として、京都大学本『兵範記』の影印本が京都大学史料叢書として(第4冊のみ未刊)、ともに思文閣出版から刊行されている。定家書写本のみに存する平治元年10月巻の写真も『古記録にみる王朝儀礼』(三の丸尚蔵館)に掲載されている。兵範記輪読会編『兵範記人名索引』が『立命館文学』の別巻として3冊まで既刊。