『玉葉』(ぎょくよう)


 藤原兼実の日記。玉葉は子孫が尊称して付した題名で、二条家に伝わった系統の写本は玉海と題されている。記録期間は長寛2年(1164)〜建仁3年(1203)。その間、二年分が欠けているほかは、ほぼ毎年の日記が残っている。自筆本は現存しないが、鎌倉時代書写の九条家本50冊が宮内庁書陵部に所蔵されていて、これが最善本である。書陵部には九条家本の欠を補う柳原家本もある。
 兼実は藤原忠通の子で、『愚管抄』を書いた慈円の同母兄。兄基実・基房、甥基通が摂政・関白を勤めるなか、長く右大臣の地位にあったが、治承寿永内乱期に平家や木曾義仲に与した基房や基通が失脚すると、文治元年(1185)源頼朝に擁立されて内覧となり、翌年には後鳥羽天皇の摂政となった。建久七年(1196)源通親らのクーデターによって失脚した後は政界に復帰することなく、晩年は法然に厚く帰依した。
 兼実は後白河院や平清盛に対して批判的な態度をとっていて政務の中枢とは疎遠であったし、摂政・関白となった文治以後も後白河院と牽制しあう立場に立つことが多かったから、政治動向については第三者的記述が多いが、自ら参加した儀式、あるいは人々から故実を尋ねられた作法などについては極めて詳細な記述を行っている。特に除目叙位に関する記事の詳細さは他に例を見ないほどである。また、様々な情報ネットワークを通じて兼実のもとにもたらされた伝聞記事も多く、頼朝の挙兵やその動向、対朝廷交渉を伝える記事などは貴重である。自らの感慨を述べ、一言居士ぶりを発揮している個所も多く、日記には時代の大きな転換期に生きた人物像が映し出されている。
 『御堂関白記』『後二条師通記』『殿暦』など摂関家歴代の日記、その後の近衛家系の日記が比較的簡略で、微細なことは家司の日記に委ねることが多いのに対して、『玉葉』の詳細さは摂関家の日記としてはやや異質とも言える。これは摂関家の傍流に位置し、家記を相伝していなかった兼実が自ら「家」を興し、自身の日記をその基礎財産としようとした意識の現れであろう。こうした意識は同じように詳細な『台記』を残した藤原頼長にも共通するものかも知れない(ただし、頼長の場合は、忠実―忠通の不和によって、忠実が忠通から取り戻した祖先の日記原本を後に譲られている)。近衛系でも父基通失脚の後、「家」再興をはからなければならなかった家実の『猪隈関白記』は詳細である。
 刊本には明治39年に国書刊行会が翻刻した『玉葉』(名著刊行会)があるが、九条家本を底本とした新しい翻刻が図書寮叢刊(明治書院)で刊行中。読み下し文にした高橋貞一『訓読玉葉』(高科書店)も出ている。多賀宗隼編『玉葉索引』(吉川弘文館)には刊本未収の断簡も収められている。国立歴史民俗博物館では国書刊行会本による玉葉全文データベースが公開されている。龍福義友『日記の思考』(平凡社)は『玉葉』について書かれた好著。