『殿暦』(でんれき・でんりゃく)


 記主は藤原忠実。承暦2年(1078)誕生。父は師通、母は藤原俊家の娘全子。康和元年(1099)師通の早世により内覧・氏長者となり、堀河・鳥羽二代の天皇の関白・摂政を務めた。保安元年(1120)白河上皇の勘気を蒙って内覧を停止され宇治に篭居したが、鳥羽院政が開始されると政界に復帰した。次子頼長を寵愛し、長子忠通と対立、久安6年(1150)には忠通を義絶して、頼長を氏長者とした。この父子兄弟の対立はやがて保元の乱へと発展していった。保元の乱後は知足院に幽閉され、応保2年(1162)85歳で没した。知足院殿・富家殿とも呼ばれた。そこで日記は『忠実公記』『知足院殿記』『知足院関白記』とも称されるが、早くも忠実の在世中より息頼長の日記『台記』に『殿暦』の名が見える。その名が示す通り、元来は暦記の形をとっていたと思われる。
 記録期間は承徳2年(1098)正月から元永元年(1110)12月までの13年間の記事が現存する。起筆時期は不明であるが、閣筆は宇治籠居前後と推定されている。なお古写本以下、第一冊は承徳元年の年紀を有するが、これは承徳2年の誤りである。
 自筆本は現存せず、陽明文庫に文永4年(1267)近衛基平書写の奥書をもつ古写本22冊(一部重複、2冊に奥書あり)が伝わる。陽明文庫の貞享3年(1686)近衛基熈書写本28冊(抜書を含む)を始め、内閣文庫・宮内庁書陵部・静嘉堂文庫・学習院大学など各所に新写本がある。康和5年(1103)〜元永元年(1110)の伊勢公卿勅使関係記事を抄出した部類記が流布しているほか、陽明文庫の『殿暦類聚纂要』『殿暦諒闇年中雑抄』と題される抄出本や、御幸・石清水臨時祭をそれぞれ抄出した部類記(書陵部所蔵鷹司本など)もある。
 詳細さという点では同時代の藤原宗忠の日記『中右記』に及ばないが、白河親政・院政期の政務を摂政・関白として主導した当事者の日記であり、当該期の政治史研究には欠かせない。特に永久3年(1115)は他の日記が現存しておらず、その点でも貴重である。忠実周辺の人々の動向、家政に関する記事は特に豊富で、藤原道長の『御堂関白記』など「家の日記」についてや、家領集積に関する記事などは興味深い。また、祖母源麗子が死去した永久2年4月3日より四十九日に当たる5月22日までの日記は家司平知信に書かせたものを後に忠実が書き入れたとの記述があり、摂関の日記のあり方や家司である「日記の家」の人々との関係の一端を示すものとして面白い。
 陽明文庫所蔵古写本を底本に『大日本古記録 殿暦』全5巻として刊行されている。