『中右記』(ちゅうゆうき)


 藤原宗忠の日記。日記の名は中御門右大臣という宗忠の称号に由来する。記録期間は応徳4年(1087)〜保延4年(1138)。白河上皇による院政が開始された翌年の正月を期して書き始められ、自身の出家とともに筆を折ったという起筆年月日と終筆年月日がはっきりとわかる珍しい日記でもある。途中散逸した部分もあるが、恐らく全体では52年分200巻を超す厖大な日記だったと見られている。現在、自筆本は伝わっておらず、陽明文庫や宮内庁書陵部所蔵の鎌倉時代古写本が善本である。
 白河院政期から鳥羽院政初期にかけての時代を研究する上でもっとも基礎となる史料で、その情報の豊富さは質量とも他の追随を許さないと言っていいだろう。源俊明や藤原通俊ら当代の有識者から学んだ有職故実についても詳しく、この日記が政務や儀式にたずさわる上での参考書として後の人々に重視され、書写伝領されて貴族社会に広く流布したのも当然である。政務運営をめぐる人々の動向、朝廷で行われた儀式・仏事・年中行事、家司としてたずさわった摂関家の諸事はもちろん、京都の都市民の暮らしぶりにも筆が及んでいるが、特に注目されているのが検非違使別当在任中の記録と熊野や伊勢への旅を記した記事で、この時期の警察機構や交通のあり方を知る上で欠くことのできない史料である。自身の信仰活動や家族・親族の動向を伝える記事も詳しい。中でも日野の阿弥陀堂造営に至るまでの祖先祭祀に関する記事や子息宗成の因幡守赴任、『小右記』の入手に関する記事などは興味深い。
 この日記の特長の一つとして、人々の死没を伝える記事にしばしばその人に対する評価を記している点が挙げられよう。中でも大治4年(1129)七月の白河法皇の死去に際して記された「天下の政をとること五十七年〈在位十四年、位を避りて後四十四年〉、意に任せて法に拘わらず除目叙位を行い給う」「威四海に満ち天下帰伏す。幼主三代の政をとり、斎王六人の親となる。桓武より以来絶えて例なし。聖明の君、長久の主というべきなり。但し理非決断、賞罰分明、愛悪を掲焉とし、貧富顕然なり。男女の殊寵多く、すでに天下の品秩破るなり」という人物評は、専制化した白河法皇の性格を示す言葉として著名である。
 貴族の日記のあり方そのものについても重要な記事を含んでいて、祖父俊家や父宗俊の日記を書写して自筆原本を供養のために漉き返して経の料紙に利用したことや、それまで書きためてきた15帙160巻の日記を書き抜き、項目ごとに分類して子息宗能のために部類記を完成させたこと、日記目録を作成したことなども記している。それらの記事には日記がこの時期成立してきた「家」と不可分の関係にあったことが示されている。なお、宗忠が作った部類記を転写したものが『中右記部類』として宮内庁書陵部・国立歴史民俗博物館を始めとする各所に伝わっている。
 『中右記』の刊本は増補史料大成(臨川書店)にあり、大日本古記録(岩波書店)でも現在刊行中。陽明文庫所蔵古写本の影印本も刊行されている(思文閣出版)。近年、佐々木令信編『中右記人名索引』(臨川書店)も刊行されて、いっそう使いやすくなった。戸田芳実『中右記―躍動する院政時代の群像―』(そしえて)は『中右記』を利用する上で参考になる名著。