吾妻鏡 巻第18


建仁三年(癸亥)

  九月大
十五日庚辰、霽、幕下大将軍二男の若君(字千幡君)、関東の長となり、去んぬる七日、従五位下の位記ならびに征夷大将軍の宣旨を下さる。その状、今日鎌倉に到着すと云々。
十七日壬午、掃部頭入道寂忍註し申して云く、叡山堂衆と学生との確執、合戦に及ぶ。その起こりと謂うは、去んぬる五月のころ、西塔釈迦堂衆と学生と合和せず。惣堂衆始めて各別の温室を興す。八月一日、学生城郭を大納言岡ならびに南谷走井坊に構え、堂衆を追却す。同六日、堂衆三ヶ庄官等の勇士を引率し、山に登り上件の城郭に攻戦す。両方傷死の者あげて計うべからず。しかるに院宣を下さるるにより、堂衆は同七日城を棄てて退散す。学生は同十九日城を出で下洛しおわんぬ、今においては静謐の由を存するのところ、同廿八日また蜂起す。本院の学生同心し、霊山・長楽寺・祇園等に群居して、重ねて濫行に及ばんと欲すと云々。
十九日甲申、晴、故比企判官能員の残党中野五郎義成已下の事、なおもってその沙汰あり。所領等を収公せらると云々。
廿一日丙戌、晴、遠州・大官令等沙汰を経られ、入道前将軍鎌倉中に坐せしめ給うべからざるの由、これを定め申さると云々。
廿九日甲午、霽、左金吾禅室(前将軍)、伊豆国修禅寺に下向せしめ給う。巳の刻進発し給う。先陣の随兵百騎、次いで女騎十五騎、次いで御輿三帳、次いで小舎人童一人(征箭を負う。騎馬)、後陣の随兵二百余騎なり。
  十月小
三日戊戌、武蔵守朝雅、京都警固のため上洛す。西国に所領あるの輩、伴党として在京せしむべきの旨、御書を廻らさると云々。
八日癸卯、天霽る。風静かなり。今日、将軍家(年十二)御元服なり。戌の刻、遠州の名越亭においてその儀あり。前大膳大夫広元朝臣・小山左衛門尉朝政・安達九郎左衛門尉景盛・和田左衛門尉義盛・中条右衛門尉家長已下の御家人等百余輩、侍の座に着す。江間四郎主・左近大夫将監親広、雑具を持参す。時刻出御。理髪遠州、加冠前武蔵守義信。次いで休所に渡御するの後、御前の物を進む。江間・親広陪膳たり。役送、結城七郎朝光・和田兵衛尉常盛・同三郎重茂・東太郎重胤・波多野次郎経朝・桜井次郎光高等なり(おのおの近習の小官の中、父母見存の輩を撰ばれ、これを召すと云々)。次いで鎧・御釼・御馬を奉る。佐々木左衛門尉広綱・千葉平次兵衛尉常秀以下これを役す。
九日甲辰、快霽、今日将軍家政所始なり。午の刻、別当遠州・広元朝臣以下の家司(おのおの布衣)等政所に着す。民部丞行光、吉書を書く。令図書允清定返抄をなす。遠州、吉書を御前に持参し給う。出御の儀なし。簾中においてことさらに以ってこれを覧る。遠州、本所に帰着するの後、椀飯盃酒の儀あり。その後始めて甲冑を着す。また乗馬し給う。遠州これを扶持し奉らる。小山左衛門尉朝政・足立左衛門尉遠元等、甲冑・母廬等を着す。次第の故実、執権悉くこれを授け奉ると云々。晩に及び御弓始あり。北条五郎奉行たり。図書允清定、矢員を注す。和田左衛門尉義盛的を献ずと云々。
 射手、
一番、
 和田左衛門尉義盛   海野小太郎幸氏
二番、
 榛谷四郎重朝      望月三郎重隆
三番、
 愛甲三郎季澄      市河五郎行重
四番、
 工藤小次郎行光     藤沢四郎清親
五番、
 小山七郎朝光      和田平太胤長
十日乙巳、昨日御弓始の射手十人、北面の竹の御壺に召さる。ことさらに禄を賜わる。或いは野剣一腰、或いは腹巻一領と云々。東太郎・和田兵衛尉・足立八郎等これを伝う。
十三日戊申、法華堂において、故大将軍の御追善を修せらる。導師真智坊法橋。将軍家御参堂あり。源大夫将監親広布施を取ると云々。
十四日己酉、鶴岳ならびに二所・三島・日光・宇都宮・鷲宮・野木宮以下の諸社に神馬を奉らる。これ世上無為の御報賽と云々。
十九日甲寅、佐々木左衛門尉定綱・中条右衛門尉家長、使節として上洛す。これ将軍御代始なり。京畿の御家人等、殊に忠貞を挿み、ふたごころを存すべからざるの由これを相触る。かつがつ起請文を召し進らすべきの趣、武蔵守朝雅ならびに掃部頭入道寂忍等の許に仰せ遣わさるるところなり。両人去んぬる九日出門すと云々。
廿五日庚申、将軍家、荘厳房行勇を招請し、法華経を伝受せしめたまう。近習の男女同じくこの儀に及ぶと云々。
廿六日辛酉、京都の飛脚参着す。申して云く、去んぬる十日、叡岳の堂衆等八王子山をもって城郭となし群居するの間、同十五日官軍を差し遣わし、これを攻めらるるにより、堂衆等退散すと云々。葛西四郎重元・豊島太郎朝経・佐々木太郎重綱以下の官軍三百人、悪徒のため討ち取られおわんぬ。伊佐太郎・熊谷三郎等先登に進むと云々。同十九日、五畿七道に仰せ、梟党等を召し進らすべきの由宣下すと云々。その間悲しむべき事あり。佐々木中務丞経高・同三郎兵衛尉盛綱、勅定をうけたまわるにより、山門に発向せんと欲するのところ、同四郎左衛門尉高綱入道(黒衣・檜笠を着す)高野より来り、舎兄等に謁す。しかるに高綱入道の子息左衛門太郎重綱、伯父経高に属き出立するの間、入道、子の行粧を見るべきの由を申す。重綱、甲冑を着し父の前に来る。父暫くこれを見、敢えて瞬くことあたわず。また詞を出さず。その後重綱休所に退去す。その際経高・盛綱等重綱に感じて云く、今度の合戦、芸を彰にして名を挙げ、勲功の賞に預かることその疑なしと云々。高綱入道これを聞きて云く、勇士の戦場に赴くは、兵具をもって先となす。甲冑は軽薄、弓箭は短小なり。これ尤も故実たり。なかんづく山上坂本辺りの如きは、歩立ちの合戦の時、この式を守るべし。しかるに重綱の甲冑ははなはだ重く、弓箭は大にして、主に相応しからざるの間、更に死を免るべからずと云々、果してその旨に違わず。しかのみならず彼の時兵法の才学を吐く。盛綱等これを聞き、件の詞を意端に挿み、合戦を致すのところ、一事にしてこれに符合せざるはなしと云々。
廿七日壬戌、武蔵国の諸家の輩、遠州に対し、ふたごころを存すべからざるの旨、殊にこれを仰せ含めらる。左衛門尉義盛奉行たりと云々。
  十一月大
三日丁卯、晴、将軍家御慶賀の後、始めて神馬を石清水八幡宮に奉り給う。和田兵衛尉常盛(布衣を着す)御使たり。
六日庚午、左金吾禅室、伊豆国より御書を尼御台所ならびに将軍家に進らせらる。これ深山幽棲、今更徒然を忍び難し。日来召し仕うところの近習の輩参入を免されんと欲す。また安達右衛門尉景盛においては、これを申し請い、勘発を加うべきの旨これを載せらる。よってその沙汰あり。御所望の条々かたがた然るべからず。その上御書を通わせらるる事、向後停止せらるべきの趣、今日三浦兵衛尉義村をもって御使として、これを申し送らると云々。
七日辛未、入道左金吾の近習の輩中野五郎以下遠流に処せらるべきの由、その定めありと云々。
九日癸酉、将軍家、前大膳大夫広元朝臣の家に入御す。尼御台所同じく渡御す。
十日甲戌、三浦兵衛尉義村、豆州より帰参す。彼の御閑居の躰、つぶさにこれを申す。尼御台所、頗る御悲歎と云々。
十五日己卯、鎌倉中の寺社の奉行の事、更にこれを定めらる。仲業・清定、執筆としてこれを記す。
 鶴岳八幡宮
  江間四郎  和田左衛門尉  清図書允
 勝長寿院
  前大膳大夫  小山左衛門尉  宗掃部允
 永福寺
  畠山次郎  三浦兵衛尉  善進士
 阿弥陀堂
  北条五郎  大和前司  足立左衛門尉
 薬師堂
  源左近大夫将監  千葉兵衛尉  藤民部丞
 右大将家法華堂
  安達右衛門尉  結城七郎  中条右衛門尉
十九日壬午、関東御分国ならびに相模・伊豆の国々の百姓に仰せ、当年乃貢の員数を減らさる。将軍の御代始として、民戸を休んぜらるべき善政なりと云々。
廿三日丙戌、将軍家、馬場殿において、小笠懸を射らしめ給う。小山左衛門尉・和田左衛門尉等これを扶持し奉る。おのおの御馬を賜る。遠州の御沙汰なり。
  十二月大
一日乙未、晴、将軍家の御願として、鶴岳上下宮において、法華八講を行わる。講師安楽坊なり。右京進仲業、奉行として廟庭に候す。尼御台所(御輿)密々廻廊に参らしめ給う。
三日丁酉、晴、尼御台所の御計として、鶴岳別当阿闍梨(尊暁)に仰せ、宮寺中の塔婆の営作を停止せらる。この塔建立の始め、火災あり。当宮以下鎌倉中数町焼亡す。その後再興のため、その地を曳かるるのところ、幾日数を経ず、金吾将軍御病悩。よって不吉の由、その沙汰ありと云々。
十三日丁未、武蔵国染殿別当職の事、故幕下将軍の御計に任せ、上野局をもってその職となすと云々。
十四日戊申、将軍家、永福寺以下の御堂に参り給う。御礼仏の儀あり。御輿なり。北条五郎・源大夫将監・大和前司・結城七郎・長沼五郎・安達右衛門尉・三浦兵衛尉・足立左衛門尉・千葉兵衛尉・佐々木左衛門尉・和田新兵衛尉等これに供奉す。
十五日己酉、尼御台所の御計として、諸国地頭分の狩猟を止めらる。清図書允清定これを奉行す。
十八日壬子、諸人訴論の是非、文書を進覧するの後、三ヶ日に至りて、下知を加えざれば、奉行人を緩怠の過に処せらるべきの由、その法を儲くと云々。
廿二日丙辰、営中の雑事、北条五郎奉行せしむべきの由、仰せ付けらると云々。
廿五日己未、夜討人、伊勢国の守護に乱入す。その張本進士行綱たるの由、義盛これを申す。