『実隆公記』(さねたかこうき)


 中世で一番の著述家は誰だろう。一条兼良か三条西実隆か、はたまた藤原定家か、二条良基か。試みに国文学研究資料館(www.nijl.ac.jp)がインターネット上で試験運用している電子資料館の「国書基本データベース(著作篇)」で検索してみよう。「実隆」でヒットしたもの二七一件、「兼良」一八五件、「定家」一六三件、「良基」七一件。所伝によるものも含まれているし、伝存状況にも左右されるから、必ずしも正確な数字ではないが、三条西実隆が群を抜いていることは動かないだろう。その著作は和歌を中心に、連歌、古典注釈、有職故実と多岐にわたる。しかし、三条西実隆って誰? そんな声もあるかもしれない。一条兼良には『公事根元』『花鳥余情』という多少は知られた著作があるが、実隆にはそれほど著名な作品はない。和歌集『再昌草』、源氏物語注釈書『細流抄』、故実書『多々良問答』を挙げたところで知る人とて少なかろうし、『桑実寺縁起絵巻』や『北野天神縁起絵巻』の詞書を書いた能書家と言っても通じないかもしれない。しかし彼なしに中世後期の文化は語れないし、その膨大な日記なしに中世後期の歴史を語ることもできない。今回は『実隆公記』と室町時代の公家文化の話を取り上げよう。
 応仁元年(一四六七)、管領畠山政長と義弟義就との間に起こった武力衝突は、政長を支持する細川勝元や義就と手を組んだ山名持豊を巻き込んで京都を舞台とする市街戦へと突入していった。戦国の世へとつながる応仁の乱の幕開けである。細川方(東軍)は将軍足利義政や後花園上皇を取り込み、山名方(西軍)に朝敵のレッテルを貼った。しかし、大内政弘が大軍を率いて西軍に合流すると西軍優勢の戦況となり、しかも東軍の総大将に戴かれていたはずの足利義視が義政との対立から西軍に身を投じて「将軍」を称し、もう一つの幕府を樹立した。戦いが膠着状態を迎える中、文明五年(一四七三)持豊・勝元が相次いで亡くなると、両軍は和睦の方向に向かい、都も平穏を取り戻しつつあった。
 『実隆公記』はそんな文明六年正月一日に始まる。疎開先の鞍馬から都に戻って迎えた初めての正月である。すでに父母を亡くし、家長となっていた二十歳の実隆は、夜も明けきらぬうちに行水や遙拝を行い、鎮守の春日社に初詣をした。朝から来客があり、書き初めをして一献を傾け、昼過ぎには来客の一人で南隣に住む正親町三条実興の家に赴いて年始の祝杯をあげた。参内したのは夕方。実興に代わって禁裏小番として天皇に食事を供し、参仕した人々とともに天皇から杯を賜った。その後、将軍足利義政らが参内している間を見計らい、勝仁親王(のちの後柏原天皇)や女房衆などへの挨拶回りを済ませて、夜中に帰宅したものの、親王からの召しで再び参内し、そのまま宿直した。以後数日間、禁裏や友人宅での外泊と沈酔の毎日が続く。六十三年の長きにわたる膨大な日記を残した日本中世を代表する文化人三条西実隆、二十歳の日記は、他の公家衆同様の日常から始まる。
 室町後期の公家日記は、禁裏小番の出仕と、和歌・連歌の会や酒宴などを通じた同僚・禅僧・女房衆との交際、寺社参詣と仏事、そして火災や戦乱の風聞記事にほぼ尽きる。中世前期の日記の大半を占めていた朝儀の記事は年に数日あるかどうかと言ったところである。その点では『実隆公記』も多分に漏れない。しかし、『実隆公記』が他を圧倒するのは書物に関する記事の多さである。自らのために読んだり書写した本のほかにも、能書であった彼には天皇や将軍などからひっきりなしに典籍書写、絵巻物の詞書執筆の依頼があり、若き勝仁親王に物語を読んで聞かせることもしばしばあったから、多くの書名が日記に記されることとなった。ジャンルも古記録から寺社縁起、和歌集・物語・説話・軍記と幅広く、源氏物語・古今和歌集・徒然草など著名なものは言うに及ばず、すでに散逸してしまっていて『実隆公記』の記事でしか知られない作品もあるのである。
 実隆は社交的教養として和歌を詠み、ただ機械的に本を写しているのではなかった。努力型の性格で追究心旺盛な彼は、文明七年二月、当代随一の歌人飛鳥井雅親の門をたたいて和歌の道に精進し、文明九年七月からは宗祇の草庵で行われた源氏物語の講義に出席して理解を深めた。文明十七年には源氏物語五十四帖の書写を終えて自家本を持つようになり、宗祇・肖柏を招いて読書会を始めている。数年後、この源氏物語五十四帖は甲斐国の住人に黄金五枚で売却し、その代金の一部で他本を購入、その後も売却と書写を繰り返して、最終的な三条西家証本と呼ばれる源氏物語の書写を終えたのは享禄四年(一五三一)七十七歳の時であった。
 この時代の文学作品の読み方は、もちろん一人で本をめくりながら読むという読み方もあるが、数人で先生の講義を受け、解釈について意見を戦わせながら読むという形が多かった。ただし、秘事とされる古今和歌集の難解な部分の解釈は、特別な弟子のみに一事ずつ切紙と口述で伝えられた。これを「古今伝授」という。実隆の学問の師宗祇は、今日専ら連歌師として名を知られているが、それ以上に源氏物語・伊勢物語に通じた古典文学者であり、東常縁から只一人「古今伝授」を受けた人物であった。彼の学問が弟子である公家たちに伝えられて、それ以後の公家文化の基礎になったと言ってもいいだろう。とりわけ古今伝授は宗祇から実隆と近衛尚通・肖柏に伝えられ、さらに実隆から子息公条・後奈良天皇へと伝えられて、公家文化の象徴的な存在になるのである。
 実隆は子孫の教育も怠らず、子の公条には七歳から基礎教養である中国の古典を教えた。数え年の七歳であるから、現在の学齢にほぼ相当する。十七歳になると、他家で開かれる学習会に参加させたり、儒学の専門家の指導を仰がせ、そして二十三歳になった永正六年(一五〇九)から本格的に源氏物語・伊勢物語・古今集を講義した。こうして実隆の源氏注釈をはじめとする古典学は公条の『明星抄』、その子実枝の『山下水』、外孫九条稙通の『孟津抄』などの著作へと繋がっていった。
 『実隆公記』の記事は八十二歳の天文五年(一五三六)二月三日、後奈良天皇より薬を賜ったという記事で終わる。前日には後奈良天皇の即位日が漸く決まったことを記すが、その即位は践祚から実に十年後のことであった。数百年にわたって築き上げられた政治文化は、一時的な復興が試みられることはあっても、間違いなく衰退の一途をたどっていた。元日にわずかな儀礼が行われるほかは、除目・叙位が残されたほとんど唯一の朝廷儀式であり、それとて関白と限られた公卿、蔵人・弁官らが参加するに過ぎない。何よりも細かな儀式作法が重視され、そのために習礼という予行練習まで行われた。古き時代をしのぶ歴史絵巻のような儀式であり、列座しない公家は見物、あるいは予行練習に代役を務めることで、その気分を味わった。公事作法の古典芸能化とも言えよう。活きた朝儀や政務が行われていた中世前期の公家にとっては公事こそが第一であって、和歌や芸能は副次的な存在であり、学芸の名声は高い政治的地位を獲得するための手段でもあった。しかし、公家が京都においても政権を失い、家格は固定化し、公事も行われなくなると、彼らはそれまで副次的であった学芸にアイデンティティを見出さざるを得なくなり、当然、公家日記の内容もそれに応じた質的変化を見せる。その産物が三条西家の古典学であり、『実隆公記』なのである。
 三条西家に伝わった『実隆公記』や膨大な古典籍が三条西家の手を離れ、公家文化が一つの終焉を迎えたのは四百年後、太平洋戦争終戦からまもなくのことであった。

〈記録期間〉文明六年(一四七四)〜天文五年(一五三六)。
〈記主〉三条西実隆。
〈伝本〉三条西家伝来の自筆本が東京大学史料編纂所に巻子本一〇六軸・折本一帖・冊子本四四冊・断簡一紙あるほか、尊経閣文庫と陽明文庫にも巻子本各一軸がある。なお、三条西家所蔵時に空襲で自筆本一〇軸・一五冊余が焼失している。

〈関連資料案内〉
戦前、三条西家によって出版された刊本に新たな翻刻を加えた活字本が続群書類従完成会から刊行されている(十九冊)。末柄豊「『実隆公記』の錯簡」(『季刊ぐんしょ』三四号)、同「『実隆公記』と文書」(『日記に中世を読む』吉川弘文館)は貴重な本文研究で、後者には焼失分を含めた原本略目録と関連文献をほぼ網羅した注が付されている。実隆の伝記については、芳賀幸四郎『三条西実隆』(人物叢書、吉川弘文館)、原勝郎『東山時代に於ける一縉紳の生活』(講談社学術文庫)などがある。

                                    (『歴史読本』2000年6月号「歴史記録への招待」より)