史料纂集 古記録編 『勘仲記』 刊行のお知らせ

 政治・経済・宗教・文化・芸能等、700年前の日本中世社会を描く一級史料

蒙古襲来前後の朝廷の様子や、持明院・大覚寺両統迭立など、重要な事件を目撃した実務官僚の克明な記録を自筆本に拠り翻刻


2015年4月20日発売


  高橋秀樹・櫻井彦・遠藤珠紀校訂

  『勘仲記』第四

   弘安7年(1284)4月〜弘安9年(1286)9月
   定価13,000円+税  A5判・上製函入 320頁 ISBN978-4-8406-5177-6 C3321

【内容紹介】
●執権北条時宗の死去(弘安七年四月八日条)
四日に死去したとの情報が届き、「天下の重事」として特筆。翌日以後、「関東の穢」により方違行幸を停止し、殺生を禁断した。さらに源頼朝以下、将軍・執権等が死去した際の先例を列挙し、「関東穢」に対応している。
●興福寺と多武峯の争いの激化
 興福寺の衆徒が大和国手掻郷(奈良市東大寺転害門付近)を焼き払う(弘安七年九月七日条)。その犯人逮捕を命じる文書を発給した兼仲は、興福寺から放氏されてしまうが、亀山上皇や関白藤原(鷹司)兼平の働きかけで、何とか継氏された(弘安七年九月十六日〜十月十日条)。
●石清水八幡宮、鴨社を訴える
 石清水八幡宮の神人が兼仲亭へやってきて、鴨社の神人を訴えた。この時は、亀山上皇が鴨社神人の解職を命じている(弘安七年八月十二日〜十四日条)。


好評既刊

  『勘仲記』第三

    弘安5年(1282)10月〜弘安7年(1284)3月

    定価13,000円+税  A5判・上製本函入・288頁

【内容紹介】
◆春日神木帰座す
 興福寺衆徒の強訴で運び込まれ、法成寺に置かれたままになっていた春日社の神
木がようやく帰った。延引されていた年中行事も行われるようになったが、興福寺
と多武峯との争いの方は収まらず、兼仲はとばっちりを受けて放氏されてしまう。

◆文庫と家の文書の管理
 兄が亡くなり、家を継いだ兼仲に対して、3年後、家の文書管理を認める院宣と
関白家御教書が出された。兼仲は早速吉田亭に付属する文庫に赴いて蔵を開け、虫
払いをした。文書が「家」そのものであり、安堵の対象でもあった。

◆鎌倉円覚寺の額
 鎌倉幕府の執権北条時宗から円覚寺に後宇多天皇筆の勅額が欲しいという申し入
れがあった。しかし数ヶ月後、鎌倉からは時宗の危篤と出家、さらに死去の報がも
たらされ、その穢れによって京都では神事が停止された。

◆叡尊の説戒
 関白の兼平は、しばしば叡尊を招いて、談義を聞き、説戒を受けた。後宇多天皇
も受戒しているし、兼仲は叡尊の草庵にも赴いている。こうした信仰を背景に、叡
尊は宇治川の網代の破却を求めたり、神社の人事に関与したり、朝廷への働きかけ
を行った。

  『勘仲記』第二

     弘安元年(1278)〜弘安5年(1282)

      定価13,000円+税 A5判・上製本函入・352頁

  『勘仲記』第一

     文永11年(1274)〜建治3年(1277)

     定価13,000円+税  A5判・上製本・306頁


■勘仲記とは
 藤原(広橋)兼仲(1244〜1308)の日記。日記名は勘解由小路中納言兼仲の称に由来する。別名『兼仲卿記』。国立歴史民俗博物館に自筆本84巻が所蔵されているほか、若干の断簡や逸文が伝わっている。日野流の広橋家は文筆の家として朝廷に仕え、兼仲の父経光の『民経記』など、代々日記を残した。
 本記は将軍惟康親王の京都送還と久明親王の将軍宣下・関東下向など鎌倉幕府と朝廷との関係、持明院・大覚寺両統迭立、鎌倉後期の公家訴訟制度の実態と整備、摂関家の家政、畿内寺社や在地の動向、詩文・神楽、仏教説話的な言説等々、政治・経済・宗教・文化・芸能、さらに宮廷儀式と多方面にわたる13世紀後半の一級史料である。
 とりわけ二度の蒙古襲来とその前後の京都の状況を知る重要な記事を多く含み、朝廷・寺社がこの事態にいかに対処したかを看取できる。


■藤原兼仲
 父は経光、母は藤原親実の女。正嘉2年(1257)14歳で叙爵し、治部少輔や摂関家の政所別当などを勤めた。兄兼頼が弘安3年(1280)死去した後、家を継いで41歳で蔵人となり、弁官や亀山上皇の院司にもなった。正応5年(1292)に蔵人頭から参議となって公卿に列し、永仁元年(1293)には権中納言となったが、翌年、これを辞し、延慶元年(1308)65歳で死去した。


□史料纂集本 勘仲記の特長
●自筆本を底本とする最善の本文を提供。
●断簡や逸文、本記が現存しない部分の日記目録も収録。
●翻刻はつとめて底本の体裁・用字を尊重した。


八木書店HP http://www.books-yagi.co.jp/pub/PDF版内容見本あり