嘉禎四年戊戌(十一月廿三日暦仁元年となる)


◎正月小。○一日戊申、雨降る。今日椀飯(匠作の御沙汰)。御剣宮内少輔泰氏。御調度若狭守泰村。御行騰・沓大和守祐時等これを持参す。一御馬、相摸式部大夫・本間式部丞。二御馬、相摸六郎・橘右馬充。三御馬、上総介太郎・同次郎。四御馬、本間次郎左衛門尉・同四郎。五御馬、越後太郎・吉良次郎。○二日己酉、椀飯(左京兆の御沙汰)。御剣駿河前司義村。御調度玄番頭基綱。御行騰肥後守為佐。一御馬、北条左近大夫将監・信濃三郎左衛門尉。二御馬、駿河五郎左衛門尉・同八郎左衛門尉。三御馬、上野七郎左衛門尉・同弥四郎。四御馬、近江四郎左衛門尉・佐々木六郎。五御馬、北条五郎・南条七郎左衛門尉。○三日庚戌、椀飯(遠江守の沙汰)。御剣右馬権頭政村。御調度遠江式部大夫光時。御行騰壱岐守光村等これを持参す。一御馬、遠江三郎・小井弖左衛門尉。二御馬、陸奥七郎・広河五郎。三御馬、信濃三郎左衛門尉・隠岐四郎左衛門尉。四御馬、小野寺小次郎左衛門尉・同四郎左衛門尉。五御馬、豊田太郎兵衛尉・同次郎兵衛尉。○四日辛亥、将軍家二所御精進始。○九日丙辰、二所御進発。左京兆供奉し給う。御経供養の導師大納言律師隆弁と云々。○十日丁巳、丑の刻、三浦駿河前司・玄番頭・若狭守等の家、失火により災う。○十五日壬戌、霽。午の刻、将軍家二所より還御す。○十八日乙丑、天晴る。匠作・左京兆小侍所に候せらる。主計頭師員・毛利蔵人大夫入道西阿・玄番頭基綱・隠岐入道行西・加賀前司康俊等召しにより参進す。将軍家御上洛の事評議あり。康俊の奉行として、御路次の間の条々の事、悉く奉行人等に召し付けらる。諸人供奉に漏るべからず。信濃民部大夫入道行然においては、御留主に候すべしと云々。また師員の奉行として陰陽師を召し、問われて云く、来る廿日御出門。廿八日御進発あるべし。しかるを件の日八龍なり。御出門の後は憚るべからざる事か。但し同じく≠オき日を択び、御進発あるべきの由、申し行うの人あり。何様たるべきかな計らい申すべし、へえり。晴賢朝臣申して云く、御出門の後、強ちに日次を択ぶに及ばず。その故は、暫く御出門の所に御坐すことあらば、路次逗留の間に准ずべきなり。然れども吉日をもって御進発するはまた≠ゥるべきかな。来月二日・三日然るべきの日なり。この上はなお当道に問わるべきかと云々。早くこの趣を披露し、重ねて当道に尋問せらるべきの由、左京兆仰せらるるの間、基綱御前に参り申す。御延引あるべからざるの旨仰せ切りおわんぬと云々。○十九日丙寅、御所心経会なり。○廿日丁卯、御弓始なり。今年御物忌たるべきにより、この儀あるべからざるの由、窮冬に定めらるといえども、故にこれを遂げらる。射手の事、昨夕俄に御前において義村の如きに仰せ合せらる。催促のために風記を陸奥太郎に下さると云々。射手。一番、小笠原六郎・藤沢四郎。二番、横溝六郎・松岡四郎。三番、岡辺左衛門四郎・本間次郎左衛門尉。四番、三浦又太郎左衛門尉・秋葉小三郎。五番、下河辺右衛門尉・山田五郎。午の刻、将軍家御上洛あるべきにより、御出門のため、秋田城介義景の甘縄家に入御す。御輿を召さる。御立烏帽子、御直垂なり。供奉人の行粧、同じくその体を摸し奉ると云々。夜に入り、左京兆ならびに室家駿河守有時第に御出門す。○廿八日乙亥、天霽。将軍家御上洛。寅の刻、先ず晴賢参る。御身固を勤む。今日八龍日なり。聊かその難あるかの由、傾き申すの族ありといえども、御出門の上は、日次の沙汰に及ぶべからざるの旨仰せらる。御許容なしと云々。巳の刻御進発。御輿を用いらる。護持僧岡崎法印成源(輿に乗る)。御験者公覚僧都・隆弁律師・頼暁律師。医道施楽院使良基朝臣・権侍医時長朝臣、陰陽道前大蔵権大輔泰貞・散位晴賢朝臣等なり。随兵以下前後の供奉人悉く進発するのところ、匠作未だ御出立に及ばず。剰え囲碁会あり。左京兆頻りにこれを勧め申さる。しかるをかの祗候人等云く、未だ旅具を整えられずと云々。よって京兆野箭・行騰等を献ぜらるるの後、酉の刻進発し給う。酉の刻酒匂駅に着御す。護持僧ならびに医陰両道の輩の宿御所の近辺に点ぜらる。同じく雑事送夫等は、加賀前司の奉行として沙汰し給うと云々。○廿九日丙子、今夕藍沢駅に入御す。

◎二月大。○一日丁丑、天晴れ風烈し。申の一点車返牧の御所に着御す。○二日戊寅、天霽る。大風塵を挙ぐ。蒲原御宿。○三日己卯、天霽る。手越御宿。左京兆の御沙汰として、御所を儲けらる。また左京兆の室上洛し給う。今日鎌倉を立たる。○四日庚辰、天霽る。島田。○五日辛巳、晴。懸河御宿。匠作の御沙汰として、遠江国の御家人等に仰せ、兼ねて御所を造らる。横地太郎兵衛尉長直奉行たりと云々。○六日壬午、霽。今暁諸人の乗替以下、御出以前に進発す。王覇の忠にそむき、狐疑に及ばず。天龍河を競い渡らんと欲するの間、浮橋破損すべきか。制を加うといえども、敢えて拘らざるの由、奉行人横地太郎兵衛尉長直等馳せ申す。よって左京兆鶏鳴の程、懸河宿を出で、河辺に到る。敷皮に着座し、一言も発せしめ給わずといえども、諸人礼を成し猶予す。自然に静謐せしめおわんぬ。将軍家御通の後、乗馬供奉すと云々。この河水俄に落つ。供奉人の所従等は、浮橋を渡ることあたわず。また乗船の沙汰なし。大半河を渡る。水僅かに馬の下腹に及ぶと云々。酉の刻池田宿に入御す。○七日癸未、霽。橋本駅に着御す。これより先人々家々を点定するの間、陸奥太郎実時主舞沢松原に宿す。戌の刻に及び、京兆かの野宿の事を聞かしめ給う。仰せられて曰く、実時者小侍別当。重職他に異る。もっとも御所辺に候すべきの仁なり。しかるをその所なきにより、駅路の上に止宿す、てえれば、予座を里家に暖むるの条、その恐れありと云々。よって陸奥太郎の野宿に到らしむるの間、宮内少輔泰氏・駿河前司義村以下の人々、多くもって旅宿を辞し申し、件の松原に参る。還って諸人の煩いたり。早く本所に入らしめ給うべきの由、おのおのこれを申す。また遠山大和守旅店(御所の近々)を辞し、陸奥太郎を招請するの間、京兆人々の礼を憚り、本宿に帰らしめ給う。太郎主面目を施し、和州の本所に宿すと云々。○八日甲申、寅の剋以後小雨。日の出晴に属す。未の剋また雨降る。豊河宿に着御す。深更に及び、風雨甚し。○九日乙酉、霽。矢作宿。足利左馬頭亭に入御す。去る夜の風雨により、洲俣・足近両河の浮橋流損すと云々。○十日丙戌、晴。萱津御宿。亥の剋将軍家俄に御不例。御霍乱か。諸人驚き騒ぐ。権侍医時長医術を施すの間、小選復本せしめ御す。よって御剣を賜う。京兆御馬を引かしめ給うと云々。○十一日丁亥、晴。今日萱津宿に御逗留す。去る夜の御不例の余気御すによってなり。その間両河の浮橋を修理すと云々。○十二日戊子、霽。小隈御宿。○十三日己丑、天晴。垂井。○十四日庚寅、陰。小脇。○十五日辛卯、天晴。野路。○十六日壬辰、天霽る。従五位下行隠岐守藤原朝臣行村法師(法名行西)卒す(年八十四)。時に伊勢国益田庄に在り。この間彼の所に向かうと云々。今日将軍家野路駅に御逗留す。明日御入洛の間、随兵已下の行列を定めらるるによってなり。小侍所別当陸奥太郎実時供奉人を注し、これを持参せらる。匠作・京兆御前において左右を定めしめ給うの後、奉行人に返さると云々。将軍家の御判を件の散状の端に載せらるる所なり。○十七日癸巳、天顔快霽。巳の剋野路宿を御出す。先ず随兵以下の供奉人庭上より路次に至まで二行座列す。御輿を寄するの後騎馬す。隆親卿以下、関寺の辺りにおいて見物すと云々。子剋御入洛。六波羅御所(この間新造)に着し給う。行列、先ず駿河前司の随兵(三騎相並ぶ。家子三十六人をもって随兵となす)。一番、大河戸民部太郎・大須賀八郎・佐原太郎兵衛尉。二番、筑井左衛門太郎・同次郎・皆尾太郎。三番、三浦又太郎左衛門尉・同三郎・山田蔵人。四番、武小次郎・同三郎・同又次郎兵衛尉。五番、秋葉小三郎・山田六郎・同五郎。六番、多々良小次郎・同次郎兵衛尉・青木兵衛尉。七番、安西大夫・金摩利太郎・丸五郎。八番、丸六郎太郎・三浦佐野太郎・石田太郎。九番、石田三郎・三原太郎。市兵衛次郎。十番、長尾平内左衛門尉・同三郎兵衛尉・平塚兵衛尉。十一番、壱岐前司・駿河四郎左衛門尉・遠藤兵衛尉。十二番、駿河五郎左衛門尉・同八郎左衛門尉・三浦次郎。先陣、駿河前司(騎馬。郎従二人前に在り)。御所の随兵百九十二騎(三騎相並ぶ。おのおの弓袋差一人。歩走三人前に在り)。一番、小林小次郎・同小三郎・真下右衛門三郎。二番、猪俣左衛門尉・荏原七郎三郎・河匂野内。三番、二宮左衛門太郎・同三郎兵衛尉・同四郎兵衛尉。四番、池上藤兵衛尉・小串馬充・多胡宮内左衛門太郎。五番、(武蔵)大井三郎・品河小三郎・春日部三郎兵衛尉。六番、高山五郎四郎・江戸八郎太郎・同高沢弥四郎。七番、大胡左衛門次郎・伊佐四郎蔵人・大胡弥次郎。八番、都筑左衛門尉・同左近将監・遠藤左衛門尉。九番、山内藤内・同左衛門太郎・西条与一。十番、後藤弥四郎左衛門尉・佐渡五郎左衛門尉・伊勢藤内左衛門尉。十一番、小野寺小次郎左衛門尉・同四郎左衛門尉・薗田弥次郎左衛門尉。十二番、紀伊次郎兵衛尉。(相模)豊田太郎兵衛尉・同次郎兵衛尉。十三番、片穂六郎左衛門尉・和田左衛門尉・同四郎左衛門尉。十四番、秩父左衛門太郎・倉賀野兵衛尉・那珂左衛門尉。十五番、中沢小次郎兵衛尉・同十郎兵衛尉・河原右衛門尉。十六番、小河左衛門尉・河口八郎太郎・立河兵衛尉。十七番、阿佐美六郎兵衛尉・塩谷民部六郎・福原五郎太郎。十八番、下河辺左衛門尉・新開左衛門尉・大河戸太郎兵衛尉。十九番、中野左衛門尉・俣野弥太郎・海老名四郎。廿番、四方田三郎左衛門尉・塩谷六郎左衛門尉・蛭河四郎左衛門尉。廿一番、栢間左近将監・多賀谷太郎兵衛尉・松岡四郎。廿二番、本庄四郎左衛門尉・西条四郎兵衛尉・泉田兵衛尉。廿三番、中村五郎左衛門尉・同三郎兵衛尉・加治新左衛門尉。廿四番、阿保次郎左衛門尉・加治丹内左衛門尉・同次郎兵衛尉。廿五番、飯富源内。本庄新左衛門尉・那須左衛門太郎。廿六番、進士三郎・多賀谷右衛門尉・江帯刀左衛門尉。廿七番、本間次郎左衛門尉・佐野三郎左衛門尉・高田武者太郎。廿八番、小河三郎兵衛尉・平左衛門三郎・三村兵衛尉。廿九番、長掃部左衛門尉・長右衛門尉・長兵衛三郎。三十番、豊田弥四郎・秋元左衛門次郎・須賀左衛門太郎。卅一番、高山弥三郎・同弥四郎・矢口兵衛次郎。卅二番、薗田又次郎・木村弥次郎・同小次郎。卅三番、後藤三郎左衛門尉・同四郎左衛門尉・同兵衛太郎。卅四番、伊達八郎太郎・中村縫殿助太郎・伊達判官代。卅五番、佐竹八郎・結城五郎・佐竹六郎次郎。卅六番、大曾禰太郎兵衛尉・同次郎兵衛尉・武藤左衛門尉。卅七番、長三郎左衛門尉・長太右衛門尉・長内左衛門尉。卅八番、善右衛門次郎・弥善太右衛門尉・布施左衛門太郎。卅九番、得江蔵人・平賀三郎兵衛尉・得江三郎。四十番、笠間左衛門尉・出羽四郎左衛門尉・狩野五郎左衛門尉。四十一番、信濃民部大夫・同三郎左衛門尉・肥後四郎左衛門尉。四十二番、壱岐小三郎左衛門尉・足立木工助・壱岐三郎左衛門尉。四十三番、佐原太郎左衛門尉・下総十郎・伊賀次郎左衛門尉。四十四番、千葉八郎・相馬左衛門尉・大須賀左衛門次郎。四十五番、内藤七郎左衛門尉・押垂三郎左衛門尉・春日部左衛門尉。四十六番、近江四郎左衛門尉・豊前大炊助・加治八郎左衛門尉。四十七番、武田五郎次郎・仁科次郎三郎・小野沢左近大夫。四十八番、宇都宮新左衛門尉・氏家太郎・筑後左衛門次郎。四十九番、和泉次郎左衛門尉・同新左衛門尉・同五郎左衛門尉。五十番、佐原新左衛門尉・同四郎左衛門尉・同六郎兵衛尉。五十一番、大井太郎・南部次郎・同三郎。五十二番、宇佐美与一左衛門尉・弥次郎左衛門尉・関左衛門尉。五十三番、少輔左近大夫将監・同木工助・上総介太郎。五十四番、筑後図書助・安積左衛門尉・伊藤三郎左衛門尉。五十五番、佐渡二郎左衛門尉・同三郎左衛門尉・同帯刀左衛門尉。五十六番、宇都宮四郎左衛門尉・同五郎左衛門尉・梶原右衛門尉。五十七番、加藤左衛門尉・河津八郎左衛門尉・河越掃部助。五十八番、小山五郎左衛門尉・宇都宮上条四郎・宮内左衛門尉。五十九番、伊豆守・武田四郎・小笠原六郎。六十番、薬師寺左衛門尉・淡路四郎左衛門尉・上野七郎左衛門尉。六十一番、陸奥五郎太郎・毛利蔵人・那波次郎蔵人。六十二番、若狭守・宇都宮修理亮・秋田城介。六十三番、遠江式部丞・越後太郎・遠江三郎。六十四番、相摸六郎・北条左近大夫将監・宮内少輔。次いで御甲着一人。次いで御胄持一人。次いで御小具足持一人。次いで御引馬一疋。次いで御歩走(召さるる人の郎等三十人)。次いで御乗替二人(童野箭、御輿の右に候す。童征箭、御輿の左に候す)。次いで御輿(御簾を上げらる。御装束御布衣。御力者三手)。次いで水干を着する人々(おのおの野箭)。一番、駿河守・備前守・右馬権頭。二番、長沼淡路前司・大河戸民部大夫・大和守。三番、天野和泉前司・玄番頭・佐原肥前々司。四番、肥後前司・江判官・伊賀判官。五番、出羽判官・壱岐大夫判官・因幡大夫判官。六番、左京権大夫(随兵三十人。水干を着する侍十八人。その外打籠る勢勝計すべからず)。後陣、修理権大夫(随兵二十人。水干を着する侍二十人。その外打籠る勢済々す)。○廿二日戊戌、天晴。将軍家始めて御出(御直衣)。陰陽頭維範朝臣御身固に候す。先ず大相国の御亭。次いで一条殿に御参す。今日前駈の沙汰に及ばず。右馬権頭(政村)御車前に候せらると云々。行列。先ず右馬権頭(政村)。次いで御車(八葉)。宇田左衛門尉・四方田五郎左衛門尉(資綱)・小宮五郎左衛門尉・本間次郎兵衛尉(信忠)・平左衛門三郎(盛時)・富所左衛門尉・若児玉小次郎・小河三郎兵衛尉(直行)・参河三郎左衛門尉・飯富源内(長能)。已上十人直垂を着し、剣を帯し、御車左右に列歩す。次いで衛府八人(おのおの布衣。帯剣。騎馬。馬歳の次第に打つ)。一番、内藤七郎左衛門尉盛綱・安積六郎左衛門尉祐長。二番、河津八郎左衛門尉尚景・豊後四郎左衛門尉忠綱。三番、上野七郎左衛門尉朝広・駿河四郎左衛門尉家村。四番、佐渡帯刀左衛門尉基政・近江四郎左衛門尉氏信。次いで扈従の殿上人、左近中将親季朝臣。○廿三日己亥、雨降る。今日将軍家御参内。一条殿より前駈三人を差し進めらる。日中以後御出。行列。先ず前駈、右馬権頭政村・治部権大輔兼康・宮内少輔泰氏・左馬権頭盛長・備前守朝直・皇后宮権大夫茂能。次いで御車(八葉)。小河三郎兵衛尉・小宮左衛門尉次郎直家・本間次郎左衛門尉信忠・平左衛門三郎・四方田五郎左衛門尉資綱・若児玉小次郎・飯富源内・修理進三郎宗長。以上、直垂を着し、帯剣せしめ、御車の左右に候す。次いで衛府十人(おのおの布衣、帯剣)、源左衛門尉・和泉次郎左衛門尉景氏・宇都宮四郎左衛門尉頼業・河津八郎左衛門尉尚景・肥前太郎左衛門尉胤家・佐渡帯刀左衛門尉基政・薬師寺左衛門尉朝村・三浦又太郎左衛門尉氏村・信濃三郎左衛門尉行綱・宇佐美藤内左衛門尉祐泰。次いで殿上人、左近中将親季朝臣。夜に入り小除目を行わる。将軍家権中納言に任じ、右衛門督を兼ねしめ給う。○廿六日壬寅、将軍家検非違使別当に補せしめ給う。○廿八日甲辰、天霽る。将軍家御馬を公家に奉らる。一御馬、大和前司祐時・安積六郎左衛門尉祐長。二御馬、大和守景朝・河津八郎左衛門尉尚景。以上四人これを引く(おのおの布衣、帯剣)。今日中納言等の御拝賀なり。御出立御覧のため、大殿六波羅殿に渡御す。門外において御下車。これ希代の事たり。則ち前駈五人を差し進めらると云々。御拝賀の行列。先ず一員、番長安利・府生為末・大志・少志家平。次いで前駈、左馬権頭盛長・宮内少輔泰氏・刑部少輔家盛・備前守朝直・治部権大輔兼康・右馬権頭政村・皇后宮権大夫茂能・駿河守有時・中務権少輔時長・越後守時盛。次いで御車。丹治部右衛門尉・小河兵衛尉・同左衛門次郎・本間次郎左衛門尉・平左衛門三郎・四方田五郎左衛門尉・立河三郎兵衛尉基泰・富所左近将監・池上藤七康親・飯富源内。以上十人直垂を着し帯剣して御車の左右に候す。(先行)看督長四人。火長四人。雑色御後。次いで衛府二十人(下臈先となす)、大見左衛門尉実景・宇佐美与一左衛門尉祐時・宮内左衛門尉公景・宗宮内五郎左衛門尉・淡路四郎左衛門尉時宗・伊藤三郎左衛門尉祐綱・武藤左衛門尉景頼・加藤左衛門尉行景・上野七郎左衛門尉朝広・信濃三郎左衛門尉行綱・近江四郎左衛門尉氏信・出羽三郎左衛門尉光家・肥前四郎左衛門尉光連・(三浦)遠江次郎左衛門尉光盛・壱岐三郎左衛門尉時清・(三浦)駿河四郎左衛門尉家村・関左衛門尉政泰・佐渡帯刀左衛門尉基政・小山五郎左衛門尉長村・大曾禰兵衛尉長泰。次いで官人、主馬大夫判官家衡。次いで随兵十人(三騎相並らぶ。最末一騎)。一番、北条左近大夫将監経時・相摸六郎時定・足利五郎長氏。二番、(三浦)若狭守泰村・(宇都宮)下野守泰綱・秋田城介義景。三番、武田六郎信長・小笠原六郎時長・千葉八郎胤時。最末、上野五郎重光。次いで扈従の公卿二人、宰相中将実雄・三位中将公経。次いで殿上人五人、左中将実光・権中将親季・二条少将孝定・近衛少将実藤・左少将為氏。以上乗車。○廿九日乙巳、天霽る。大理庁始なり。検非違使廿六人皆参す。その中五位尉八人と云々。大理出御。おのおの面拝を遂ぐと云々。晩に及び将軍家御参内(御直衣)。供奉人去る廿二日に同じ。暁更に至り、前右府ならびに准后の御亭に渡御すと云々。○卅日丙午、卯の一点、将軍家六波羅に還御す。

◎閏二月小。○三日己酉、天霽る。御招請により将軍家大相国禅閤の御亭に渡御す。御儲美を尽さる。御贈物、風流の棚二脚(おのおの金銀を飾り和漢の書を置く)。夜に入り六波羅に還御す。○七日癸丑、天晴る。戌の刻、佐女牛東洞院失火。南北二町余災う。○十三日己未、霽。午の刻、日重暈あり。陰陽頭維範朝臣絵図を帯し、最前に六波羅殿に馳せ参り、殊に御慎しみあるべきの由を申す。その後、権天文博士季尚朝臣以下両三人召しに応じて参上す。維範朝臣進むる所の図を下され、所存を勘申すべきの旨仰せらるるの間、強ちに重変に非ず。去る建保年中、道昌朝臣水無瀬殿において白虹日を貫くの由奏聞するの時、孝重朝臣申し敗るるの変は今の暈なりと云々。今夜維範朝臣天地災変御祭を奉仕す。伊勢前司定員これを奉行すと云々。○十四日庚申、雨下る。終日休止せず。重変ありといえども、三ケ日中に降雨せば、消えるべきかの由、泰貞朝臣兼ねてこれを申すと云々。○十五日辛酉、天晴る。戌の刻、維範朝臣また六波羅殿に参る。太白昴星を犯す。歳星哭星を犯すの由これを申す。よって将軍の御祈として属星祭を行わる。在衡朝臣これを奉仕す。戌の四剋、樋口町辺り焼亡す。○十六日壬戌、未の刻鞍馬寺焼亡す。失火と云々。小堂より火出来す。当寺は桓武天皇の御字延暦十五年丙子、藤原伊勢人貴布禰明神の告げにより、草創以降、星霜既に三百八十余年。専ら帝都擁護の精舎たりと云々。

◎三月大。○二日丁丑、天霽る。丑の刻将軍家聊か御不例。○六日辛巳、寅の刻雷雨霹靂。○七日壬午、天晴る。将軍家権大納言に任ぜしめ給う。また督・別当を去り給う。今日御不例御減の後、御沐浴。医師時長朝臣祗候すと云々。○十八日癸巳、海老名左衛門大夫忠行位記を止めらる。宜しく本官左衛門尉たるべきの旨宣下す。これ関東の御免を蒙らず、叙爵を直奏せしむるの間、その沙汰あるによってなり。○十九日甲午、去る夜深更より今日辰の剋に及ぶまで雨降る。将軍家北山別業に渡御す。亭主ならびに一条殿・前右府以下、去る夜より、この所において待ち奉らる。御興遊等あり。半更六波羅に還御すと云々。○廿二日丁酉、陰。晩雨降る。今日六波羅殿において南北二京の碩学を屈し仁王八講を行わる。大殿・准后御聴聞のため入御すと云々。○廿三日戊戌、雨降る。未の三点、寅方大風。人屋皆破損し、庭樹悉く吹き折る。申の剋晴に属す。西風また烈し。御八講結願。頗る魔障なり。今日相模国深沢里大仏堂事始なり。僧浄光尊卑緇素に勧進せしめこの営作を企つと云々。○廿四日己亥、天晴る。午の刻雨下る。雷鳴数声。○廿八日癸卯、天晴る。今日春日行幸也。○卅日乙巳、小山下野守従五位下藤原朝臣朝政法師(法名生西)卒す(年八十四)。病患幾日数を経ず。去る比、舎弟上野入道日阿相共に南都において登壇受戒せしむと云々。

◎四月小。○二日丁未、(三浦)若狭守泰村・(二階堂)出羽守行義等評定衆に召し加えらるるの由仰せ下さる。おのおの領状を申すと云々。○六日辛亥、天霽る。将軍家勅授の事宣下と云々。○七日壬子、晴陰。将軍家大納言御拝賀の儀あり。扈従の公卿・殿上人連軒す。前駈以下中納言御拝賀の時に同じと云々。○九日甲寅、天晴る。今日天台座主(慈源僧正。将軍家御舎弟)御拝堂。○十日乙卯、天霽る。一条殿御息の若君(福王公。将軍家の御舎弟)仁和寺御室に入室し給う。大殿御同車。君達右府(良実)・幕下(実親〔経〕)・将軍家御扈従。後車の雲客済々す。件の若君、日来は将軍家の御猶子なり。忽にその儀を変えられおわんぬ。臣下の御入室、希代の例なり。晩に及び還御。戌の刻、錦小路白河焼亡す。数十字災う。その後小雨降る。○十一日丙辰、陰。深更に及び小雨降る。今日将軍家直衣始。○十六日辛酉、天霽る。賀茂祭なり。将軍家御見物の間、毎事の花美例年を超ゆ。則ち御家人廷尉能行・家平・基政・光重・頼業等大路を渡る。○十八日癸亥、天霽る。将軍家権大納言を辞せしめ給う。○廿四日己巳、雨降る。一条大殿兵杖御辞退。准三后の宣旨を下さる。即ちまたこれを辞せしめ給うと云々。○廿五日庚午、雨降る。今日一条大殿法性寺殿において御素懐を遂げらる。御戒師飯室前大僧正(良快。九条殿御息)。唄師岡崎法印成源、御剃手法印印円、摂政殿以下済々群参す。将軍家参らしめ御す。

◎五月小。○四日戊寅、暁陰る。晩に及び、将軍家より菖蒲の御枕(金銀を鏤む)ならびに御扇等を公家に調進せらると云々。件の御枕は六位定役として調進する者なり。しかるを求めらるるにより、御進物の次かくの如しと云々。○五日己卯、戌の刻、太白軒轅大星を犯す。希代の変異なり。延喜天暦二代の御記に見ゆと云々。今日坊門大納言入道殿謁し申さしむべきの由、左京兆に示し遣わさるといえども、風気と称し辞退すと云々。これ承久兵乱の時、彼の禅門罪科の事、左京兆殊に潤色を加えらるるにより、故二品ならびに右京兆等の御計として宥めらるるの間、その事に報いんがため今この儀に及ぶと云々。京兆兼ねてその意を得、向わしめ給わずと云々。○十一日乙酉、故左衛門尉坂上明定の子息左兵衛尉明胤亡父の遺跡を領掌する事、相違あるべからざるの由、厳旨を含ます。これ石見国長田保・播磨国巨智庄地頭職・河内国藍御作手奉行・近江国天福寺地頭等の事と云々。去年十月四日、父これを譲り死去す。明定名人たるにより左京兆頻りに遺孤を憐愍し給うと云々。○十六日庚寅、今日将軍家右府の御亭に渡御す。御興遊の最中、若君(福王公)飼い給う所の小鳥(鵯)籠の内より飛び去る。庭前の橘の梢に在り。若君周章し給うの間、諸大夫・侍等馳走すといえども、取らんと欲するに所なし。或る雲客申して云く、将軍家の御共は大略勇士なり。その中の弓の上手を召し、これを射取らしめ給べしと云々。よって若宮御前に参り、この由を申し給う。この事将軍家殊に御思慮あり。態と小冠を撰び、上野十郎朝村を召し上ぐ。この鳥死なざるの様に射取るべきの由仰せ含めらる。朝村辞し申すことあたわず。弓と引目を取り、樹下に進み寄る。彼の木の枝葉もっとも茂る。小鳥の姿僅かに葉の隙に見ゆといえども、枝差し違えて養由に非ざる者輙くこれを獲り難きか。朝村庭上に蹲居し、小刀を取り引目の目柱二を削り欠くの後これを挟む。数反樹下を窺い廻る。諸人その気色を見、敢て瞬かず。遂に箭を発す。鳥声を止め、箭庭上に落つ。朝村即ち件の箭を持参す。鳥引目の内に込もる所なり。目柱を削り捨つる事、この用意なり。籠の中に入れらるるのところ、尾羽を動かし囀り鳴く。堂上堂下感嘆の声耳に満つ。将軍家御衣を解かしめ給う。亭主御剣を召し出ださる。おのおの朝村の纏頭となすと云々。○十八日壬辰、相摸国深沢里大仏の御頭これを挙げ奉る。周八丈なり。○十九日癸巳、小雨降る。申の刻天晴る。今日最勝講始なり。○廿日甲午、陰晴。将軍家御家人左衛門少尉藤原時朝(笠間と号す)・藤原朝村(上野十郎と号す)等をもって前右大臣家(普光園)の御簡衆に加えらる。朝村においては射芸に感じ給うにより、御所望に及ぶと云々。

◎六月大。○五日戊申、天霽る。将軍家春日社に御参す。申の剋雨降る。深更に及び、雷鳴雹降る。御出の行列。先ず駿河前司の随兵六騎。一番、長尾平内左衛門尉景茂・同三郎兵衛尉光景。二番、駿河四郎左衛門尉家村・三浦次郎有村。三番、駿河五郎左衛門尉資村・同八郎左衛門尉胤村。先陣、駿河前司義村。次いで御所の随兵三十騎。一番、河内守光村・千葉八郎胤時・梶原右衛門尉景俊。二番、下河辺右衛門尉行光・関左衛門尉政泰・三浦又太郎左衛門尉氏村。三番、佐渡次郎左衛門尉基親・佐竹八郎助義・相馬次郎左衛門尉胤綱。四番、氏家太郎公信・大曾禰兵衛尉長泰・壱岐三郎左衛門尉時清。五番、筑後図書助時家・伊東三郎左衛門尉祐綱・宇佐美与一左衛門尉祐時。六番、遠江次郎左衛門尉光盛・和泉次郎左衛門尉景氏・加藤左衛門尉行景。七番、武田六郎信長・大井太郎光長・近江四郎左衛門尉氏信。八番、若狭守泰村・秋田城介義景・佐原肥前々司家連。九番、相摸六郎時定・足利五郎長氏・河越掃部助実時。十番、北条左近大夫将監経時・遠江式部大夫光時・陸奥掃部助実時。次いで御輿(御簾を上げらる。御弓袋差以下、御入洛の時の如し)。江戸八郎太郎景益・山内藤内通景・品河小三郎実貞(おのおの相替わりて御剣を持つ)。池上藤兵衛尉康光・中沢十郎兵衛尉成綱・本間次郎左衛門尉信忠・小河三郎兵衛尉直行・阿保次郎左衛門尉泰実・猪俣左衛門尉範政・四方田五郎左衛門尉資綱・本庄新左衛門尉朝次・修理進三郎宗長・平左衛門三郎盛時・立河三郎兵衛尉基泰・荏原三郎貞政。以上十五人、直垂・帯剣。御輿の左右に列歩す。但しおのおの五人結番せしめ、行程二里を経るごとに相替わりて互いに休息すと云々。次いで水干を着する人々。一番、相摸守重時・武蔵守朝直・右馬権頭政村・宮内少輔泰氏。二番、越後守時盛・甲斐守泰秀・下野守泰綱。三番、玄番頭基綱・壱岐大夫判官泰綱・豊前大炊助親秀・宇都宮判官頼業。四番、肥後前司為佐・江大夫判官祐行・出羽判官家平。五番、大蔵少輔景朝・伊賀左衛門大夫光重・後藤佐渡判官基政。六番、和泉前司政景・大和前司祐時・信濃民部大夫行泰。後陣、左京権大夫・修理権大夫。已上両所の後騎数百人相列すること雲霞の如し。この外の人々の従類、或いは前路を構え、或いは追って群を成すと云々。○六日己酉、天霽る。日中雷雨。今日将軍家春日社より還御。○七日庚戌、天霽る。遠江三郎時長主蔵人に補す。参内の間、布衣の侍五人・雑色一人(如木)・童一人これを相具す。今日即ち右衛門権少尉に任ずと云々。○九日壬子、紀伊国日前宮営作の事、成功に付して造畢すべきの旨、宣下せらるるにより、将軍家挙げ申さしめ給う所の任人等、今にその功を進めざるの間、社司の訴えあり。よって未済なく沙汰を致すべきの由仰せ下さると云々。○十日癸丑、加賀前司康俊所労危急により、問注所執事を辞し申すの間、子息民部大夫康持をもって、その替わりとなすべきの旨仰せ下さると云々。○十四日丁巳、前加賀守従五位上三善朝臣康俊卒す(年七十二)。○十九日壬戌、洛中警衛のため辻々において篝を懸くべきの由定めらる。よってその役を御家人等に充て催さると云々。○廿三日丙寅、禅定殿下の若君(福王公)仁和寺に入御す。右府御同車。前駈十人、後車の月卿雲客七八許輩、侍十人なり。即ち今日御剃髪の儀ありと云々。戌の剋北辺焼亡す。○廿四日丁卯、終夜雨降る。今日土御門大納言(通方卿)甍ず(年)。左京兆これを訪わしめ給う。○廿五日戊辰、雨降る。終日休まず。丑の刻、大風、霹靂、洪水。人屋多く破損す。栂尾清瀧河辺りに蛇出ずと云々。○廿六日己巳、天晴。今日摂政殿の宇治入り延引す。去る夜の雨により洪水の故なり。○廿八日辛未、晴。晩頭雷雨。今日任大臣の召し仰せ延引す。来月これを行わるべしと云々。

◎七月小。○二日乙亥、天霽る。午の刻以後、降雨。今日任大臣の召し仰せなり。○九日壬午、晴。今日摂政殿の宇治入りなり。扈従の殿上人数十人、公卿一人(御弟大納言殿と云々)。○十日癸未、天霽る。寅の剋、〓惑【けいわく】と填星と同変の由、司天の輩勘文を奉ると云々。○十一日甲申、左京兆密々に園城寺に参り給う。これ去年禅定二位家の一十三年の御忌景に当り、彼の恩徳に報い奉らんがため、鎌倉において書功を終えらるる所の一切経五千余巻、今日また件の御月忌を迎え、唐院の霊場に納め奉らるるによってなり。当寺は聖霊の御帰依、施主の御渇仰他所に異なると云々。経巻の奥ごとに左京兆の署判を加えしめ給うと云々。○十六日己丑、天晴る。将軍家本座宣旨を蒙らしめ給うと云々。○十七日庚寅、小雨降る。准后(禅定殿下の北政所)法性寺殿において落飾せしめ給う。御戒師飯室僧正良快と云々。○廿日癸巳。霽。今日任大臣の節会。左大臣(良実)・右大臣(実親)・内大臣(家嗣)と云々。○廿三日丙申、晴陰。戌の刻小雨降る。今日卯の一刻、将軍家石清水八幡宮に御参す。午の剋遷御。○廿五日戊戌、晴陰。法性寺禅定殿下御出家の後始めて御参内。前駈四人、坊官四人、緇素後車おのおの一両と云々。○廿七日庚子、六波羅御所造営所役の事、無沙汰の国々相交じるの間、その沙汰あり。早く弁償せしむべきの由、今日仰せ下さると云々。

◎八月大。○二日甲辰、将軍家年来の御願を果たさしめ給わんがため、春日社壇において一切経を供養せらる。導師東北院僧正円玄、題名僧百口と云々。○十八日庚申、終日雨降る。八所御霊祭延引すと云々。○十九日辛酉、雨休止す。然れども時々また時雨灑す。山城国の悪党新平太召し禁ずるのところ逐電しおわんぬ。よって在所に付し生虜すべきの由、山城国・大和国等の住人に相触れらる。また双六を止むべきの由仰せ下さると云々。今日御霊祭なり。将軍家今出河殿において御見物の間、渡物の風流、結構例に異なると云々。○廿五日丁卯、将軍家賀茂・祇薗・北野・吉田等の社に参らしめ給うと云々。

◎九月小。○一日癸酉、雨降る。左京兆の御亭において七ヶ夜の大土公祭を始行せらる。今夜泰貞朝臣これを奉仕す。清基・家氏・晴茂・国継・親職等の朝臣これに結番せらると云々。○九日辛巳、寅の剋、太白大微右執法星を犯す。同時に〓惑【けいわく】軒轅を犯す。戌の刻、月歳星を犯す(相去ること一尺許り)。また亥の剋より丑の時まで、流星或いは七八尺、或いは三四尺。その員を知らず。色白赤。今日斉藤兵衛入道浄円の奉行として、地頭の間の事、沙汰を経らるるの条々あり。所謂本司跡と云い、新補率法と云い、両様を混乱すべからざるの由、下知するのところ、叙用せず。違犯においては、その所を改易し、勲功未給の輩に充て行わるべし。次いで地頭に補せしむるの輩、或いは先例に背き、或いは父祖の例に違うの由、訴訟の時、御下知に従わざれば、先ずその所を召し、官仕忠労の輩、ならびに所知の替わりに充て行うべし。次いで御祈勤仕の人々の跡の事、先条の如きの子細あらば、その所他人に充て給うべしと云々。○十一日癸未、山城国中の庄園郷保の悪党等の事、殊に禁遏すべきの由沙汰ありと云々。○十三日乙酉、今夜明月霽を得る。左京兆先年御在京の時、対面せしめ給うの人あり。御懇志今に等閑せず。月の興をもって媒となし、一首の御歌を遣わさる。みやこにていまもかわらぬ月かげに昔の秋をうつしてぞみる。○十八日庚寅、晴。子の刻、殿下の北政所御流産(姫君)。七ヶ月と云々。○十九日辛卯、晴。右馬権頭(政村)将軍家の御使として、殿下に参らる。去夜の御事を訪い申さしめ給うによってなり。○廿日壬辰、賀茂別雷社領近江国安曇河御厨内藤江村の事、使の入部を止むべきの由、守護人近江入道虚仮に仰せらる。これ敬神の他に異るによってなり。○廿二日甲午、霽。初斎宮野宮に入らしめ御すと云々。○廿四日丙申、晴。弁僧正定豪入滅す。去年東寺長者に補し、幾旬月を経ずと云々。これ民部少輔源延俊の男、兼豪法印の入室灌頂の弟子なり。○廿七日己亥、霽。御家人任官の事、所望の輩成功を減納せしむべきの由、相議するの旨、その聞こえあるにつき、今日沙汰を経られ、停止すべしと云々。およそ成功の官職の外、御挙あるべからざるの趣、定めらると云々。御在洛の次、官位を望み申すの族これ多し。また御吹挙あり。よって向後の法を固めんがため、この評定に及ぶ。詮匂勘者相摸三郎入道真昭なり。

◎十月大。○三日甲辰、陰晴。夜に入り甚雨。今日鞍馬寺上棟。将軍家御奉加あり。馬三疋・御剣・砂金等なり。河越掃部助御使たりと云々。今夜北白河院(禁裏の御母)御頓死と云々。日来脚気の御労と云々。○四日乙巳、雨下る。松殿禅定殿下(師家)天王寺において薨ずと云々。今日南都住侶武蔵得業隆円東大寺別当職〔別院〕に補す。件の寺の別当職、これ去々年南京衆徒蜂起騒動の時、忠節を関東に竭すの間、勧賞を行わるべきの旨、兼日の御約諾あるによってなり。当寺前別当頼暁得業は承久兵乱の張本秀康の子息を隠し置き、剰え山辺庄を掠領す。その過すでに重畳。改易せらるべきの由、東大寺別当僧正坊に触れ仰せらるるのところ、件の寺は頼暁の別相伝として本所の成敗に非ず。その身の咎により、没収せらるるにおいては、直に御沙汰あるべきの旨、報じ申さるるにつき、この御計に及ぶ。○七日戊申、松殿薨じ給う事、前武州遺跡を訪い申さしめ給う。小野沢左近大夫仲実御使たりと云々。○九日庚戌、晴。亥の刻女院北白河殿に葬し奉ると云々。○十一日壬子、丹後〔丹波〕国曾我部庄は後白河院法花堂領たるにより地頭を補せられず。よって守護使の入部を停止すべし。夜討以下の事出来の時は庄家犯否を糺明し、その身を召し渡すべきの由、今日前武蔵守に施行せらる。故右幕下の御遺命、殊に彼の法華堂の事を重んぜらるるの間、これを申し行わしめ給うと云々。○十二日癸丑、将軍家御参内(御直衣。八葉車)。左馬権頭盛長・刑部少輔家盛等供奉す。後車親季朝臣なり。その後一条今出河両御亭に渡御す。明日関東に御下向あるべきの故なり。一条殿において。御贈物繁多なり。拾遣納言(行成卿)真筆の古今和歌集、雅忠朝臣相伝の医書等その内に在りと云々。今日畿内西国中の庄園郷保の住人好んで強窃・博奕・刃傷・殺害をもって業となす輩の事、神社仏寺権門勢家の領を嫌わず、相触れずその身を召し取り、かつがつ在所を注進すべきの由、守護人等に仰せ含めらると云々。○十三日甲寅、天霽る。寅の一点、将軍家関東御下向の御進発なり。御持僧岡崎僧正成源、医師良基・時長等の朝臣なり。陰陽師泰貞・晴賢等の朝臣。また陰陽頭維範朝臣これを召し具せらる。忠尚・季尚・在直等の朝臣御身固に候す。前後陣の供奉人・随兵等、御入洛の時に同じ。但しおのおのの行粧花美前儀に軼ぎず。大相国禅閤四宮河原において御見物。堀河大納言(具実卿)大津浦において車を立てらる。その外の卿相雲客の車勝げて計うべからず。およそ見物の緇素、面をもって墻となす。酉の剋小脇駅に着御す。近江入道虚仮御所を立て入れ奉る。御儲の結構比類なしと云々。○十四日乙卯、晴。匠作・前武州旅の御所に参らしめ給う。然るべき宿老多くもって小侍に着座し、坏酌数献に及ぶ。佐野木工助俊職等陪膳に候す。虚仮御引出物を献ずと云々。巳の剋出御。未以後雨降る。酉の斜め箕浦御宿。○十五日丙辰、霽。未の剋、垂井御宿。○十六日丁巳、晴。申の剋、小隈御宿。○十七日戊午、霽。萱津。○十八日己未、霽。熱田社御奉幣あり。酉の一点矢作宿の辺りの左馬頭義氏朝臣亭に入御す。○十九日庚申、夜に入り雨下る。戌の一剋豊河駅に着御す。○廿日辛酉、風雨。辰の刻出御。本野原において甚雨暴風。然れども御輿の前後人々は笠を擁すに及ばず。皆もって鼻を舐む。午の刻以後晴に属す。酉の剋橋本御宿。○廿一日壬戌、霽。池田。○廿二日癸亥、晴。懸河。○廿三日甲子、晴。島田。○廿四日乙丑、霽。蒲原(手越)。○廿五日丙寅、霽。蒲原宿に御逗留す。聊か御不例によってなり。○廿六日丁卯、晴。未の剋、車返御宿。○廿七日戊辰。霽。(鮎沢)竹下御宿。○廿八日己巳、晴。酒匂駅。浜部御所。○廿九日庚午、寅の剋小雨。巳の三点晴に属す。酉の一剋、鎌倉の御所に着御す。

◎十一月大。○十四日乙酉、去る夜より雨降る。申の斜乾の方雷鳴両三声。天変の御祈のため維範朝臣天地災変祭を奉仕す。○十七日戊子。夜に入り雪降る。御所において和歌御会あり。前武州参らる。真昭・基綱・基政・親行等その衆たり。甲斐守泰秀経営す。盃酒・置物等ありと云々。○廿八日己亥、去る十六日の除目聞書到来す。将軍家御覧あり。右大将(兼平公)と云々。即ち御賀札を遣わさるる所なり。○廿九日庚子、天霽る。今暁、太白星祭以下、御祈等を行わると云々。今日将軍家鶴岡八幡宮に御参す。未の剋御出(御束帯。御笏)。維範朝臣反閇に候す。周防守光時御剣を役す。今夕地震。

◎十二月大。○二日癸卯。雪降る。○三日甲辰、夜半以後雪下る。午の剋に及び天晴る。今暁北条左親衛鳥立を見んがため、大庭野に行き向かわる。(三浦)若狭守・(同)駿河四郎左衛門尉・同五郎左衛門尉・下河辺左衛門尉・遠江三郎左衛門尉・武田六郎・小笠原六郎以下の射手等多くもって相伴せらると云々。○七日戊申、晴。今日評議の次、諸堂供僧等の事につき、定めらるるの旨あり。これ病患に臨み、非器の弟子に付嘱し、また名代を立つるの後、世間に落堕す。なおその利潤を貪る事、向後停止すべきの由と云々。○九日庚戌。天霽る。午の刻地震。今日京都の使者参着す。去月廿三日改元。嘉禎四年を改め暦仁元年となる。経範朝臣これを撰進す。病惑の変によりこの儀に及ぶと云々。○十二日癸丑、大雪降る。曙の後、北条左親衛若狭守以下の人々を相具し、山内の辺りを逍遥す。雉・兎多くこれを獲る。○十四日乙卯、天変の御祈等、内外典につき始行すと云々。○十六日丁巳、終日雨降る。今日評定。御家人等重病危急の期に臨まざれば、所帯を妻妾に譲るべからざるの由定めらると云々。その後、匠作・前武州御所に参らる。恩沢の沙汰あり。基綱これを奉行す。○十八日己未、毎月六斎殺生禁断の事仰せ下さる。但し河海漁人渡世の計たらば制止の限りに非ざるの由と云々。○十九日庚申、御所において節分の御方違の事、その沙汰あり。遠江守の名越の宿所を用いらるべきの由、前武州申さしめ給うのところ、清右衛門大夫季氏申して云く、彼の所、天一遊行の方なり。憚りあるべしと云々。陰陽頭維範朝臣に問わる。公家の外、その憚りあるべからざるの由これを申す。よって名越亭に治定すと云々。○廿二日癸亥、去る廿日より今夜に至るまで御所において属星御祭を行わる。晴賢朝臣これを奉仕す。将軍家毎夜その庭に出御す。御拝あり(御束帯)。今夜結願なり。御祭の物具皆焼き上ぐと云々。能登守仲能これを奉行す。○廿三日甲子、霽。戌の剋、将軍家御方違のため遠江守朝時の名越亭に入御す。これ日来の御本所なり。今日匠作家領の惣員数を注し、子息等に配分し給う。大体内々前武州に申し合わさる。少々用捨の事ありと云々。○廿四日乙丑、晴。遠州亭に御逗留す。今日帰亡日〔帰己日〕たるによってなり。これその憚りなきの由、陰陽道これを勘申すといえども、法性寺殿忌ましめ御すの間、御佳例を追わると云々。○廿五日丙寅、名越より還御。遠州御引出物を進めらる。御剣式部丞時章、御馬遠江修理亮時幸、同五郎時兼等これを引く。○廿六日丁卯、将軍家御持仏堂東の僧坊に出御す。匠作・前武州参らる。恩沢の事等、御前において沙汰あり。入眼。その後、同東縁に出御す。陰陽師等を召し、明年二所御奉幣の日時以下の事、直に下問あり。定めらると云々。○廿八日己巳、匠作・前武州・遠江守・右馬権頭・駿河守・宮内少輔等、右大将家・二位家・前右京兆等の法華堂に参らる。歳末たるの故か。駿河前司・毛利蔵人大夫入道・甲斐守・秋田城介参会すと云々。○廿九日庚午、天霽る。戌の剋、周防前司親実の家焼亡す。失火と云々。