嘉禎三年(丁酉)

◎正月大。○一日癸丑、天霽れ、風静かなり。椀飯(匠作の御沙汰)。御剣駿河前司義村(布衣)、御弓矢相摸式部大夫朝直、御行騰・沓佐原三郎左衛門尉家連。一御馬(鞍を置く)、相摸五郎・本間式部丞。二御馬、佐原新左衛門尉・同次郎左衛門尉。三御馬、信濃次郎左衛門尉・同三郎左衛門尉。四御馬、駿河太郎・本間次郎左衛門尉。五御馬、相摸六郎・出羽左衛門尉。○二日甲寅、霽。今日椀飯。左京兆御分たりといえども、御軽服により、孫子弥四郎殿これを沙汰せらる。御剣丹後守泰氏、御弓矢左衛門大夫泰秀、御行騰・沓上野七郎左衛門尉朝広。一御馬、遠江式部丞・南条七郎左衛門尉。二御馬、駿河四郎左衛門尉・同五郎。三御馬、隠岐三郎左衛門尉・同四郎左衛門尉。四御馬、陸奥太郎・原左衛門四郎。五御馬、陸奥七郎・平左衛門三郎。○三日乙卯、天晴る。酉の剋雨下る。夜に入り南方に雷鳴す。今日椀飯(越州の御沙汰)。御剣右馬権頭、御弓矢城太郎義景、御行騰・沓筑後図書助時家。一御馬、遠江式部丞・小井弖左衛門尉。二御馬、上総介太郎・同次郎。三御馬、伊賀六郎左衛門尉・同太郎兵衛尉。四御馬、信濃三郎左衛門尉・隠岐四郎左衛門尉。五御馬、佐原新左衛門尉・同次郎兵衛尉。○六日戊午、晴。椀飯以後、小御所において目勝の御勝負あり。女房をもって賭物を出さる。二条侍従・右馬権頭・相摸式部大夫・周防前司・長井左衛門大夫・毛利蔵人・駿河大夫判官・同四郎左衛門尉・隠岐式部丞・佐原新左衛門尉等祗候す。○八日庚申、恒例の心経会なり。将軍家出御。今日二所御奉幣ある事、御沙汰に及ぶと云々。○十一日癸亥、晴。椀飯以後、御弓始あり。射手。一番、駿河次郎・佐原次郎兵衛尉。二番、下河辺左衛門尉・伊賀太郎兵衛尉。三番、本間次郎左衛門尉・広河五郎。四番、横溝六郎・原三郎。五番、小笠原六郎・松岡四郎。○十七日己巳。将軍家(御束帯、御車)鶴岡八幡宮に御参。晴賢朝臣御秡。長井左衛門大夫陪膳たり。周防前司御剣を取り、役人相摸式部大夫に授く。佐々木八郎左衛門尉御調度を懸くと云々。○廿二日甲戌、申の刻雷鳴。

◎二月小。○一日庚寅、大夫判官定員上洛す。○十五日丁酉、霽。将軍家二所御精進始め。○廿一日癸卯、晴。将軍家二所御進発。匠作扈従し給う。その外済々す。随兵四十余騎なり。○廿六日戊申、陰。二所より御下向。御往還の間、風雨の難なし。今日京都の使者参る。摂禄御聟近衛左府(兼ー)に移らるるの間、去る十日御拝賀。扈従の公卿十人と云々。

◎三月大。○六日丁巳、晩景小雨降る。雷鳴数声。○八日己未、天霽る。夜に入り甚雨。今日主計頭師員の奉行として近習番ならびに御身固の陰陽師の員を定めらる。一番、遠江式部丞・周防前司・前民部権少輔・隠岐式部大夫・上野弥四郎・平賀三郎兵衛尉。二番、壱岐守・摂津民部大夫・武藤左衛門尉・後藤佐渡左衛門尉・伊賀六郎左衛門尉・伊佐右衛門尉。三番、相摸六郎・佐原太郎左衛門尉・江右衛門尉・斎藤左衛門尉・本間式部丞・飯冨源内。一番(御身固の事)、前大蔵権大夫泰貞朝臣。二番、陰陽権助晴賢朝臣。三番、前縫殿頭文元朝臣。○九日庚申、甚雨沃ぐが如し。終日休止せず。亥の刻洪水。今夜新御所始めて和歌御会あり。庚申を守らるるなり。題、桜花盛久、花亭祝言(左兵衛督頼氏朝臣これを献ず)。左京兆・足利左典厩・相摸三郎入道・快雅僧正・式部大夫入道・源式部大夫・佐渡守・城太郎・都筑右衛門尉経景・波多野次郎朝定等その座に候す。○十日辛酉、明王院の東に丈六堂を新造せらるべき事、今日その沙汰あり。これ今年故禅定二位家の十三年御忌景に相当たるの間、御追善のためなり。佐渡守基綱・摂津民部大夫為光をして奉行せしむべきの旨仰せ下さる。よっておのおの陰陽道勘文を召す。泰貞・晴賢・文元等これを献ずと云々。○廿一日壬申、京都警衛の事、去々年正月より、更に結番せらるるのところ、なお不法の輩相交じるにより、匠作・左京兆殊にこれを沙汰せしめ給い、御家人等を催さると云々。○廿五日丙子、新造の精舎を供養せらるべきの日時以下の事、今日その沙汰あり。六月三日・十一日・十五日・十八日等たるべきの旨、陰陽道勘文に載すといえども、作事半ば、未だ功を成さず。日数迫りおわんぬ。延引し給うべきの由仰せ出さると云々。○廿六日丁丑、天変の御祈等これを行わる。○卅日辛巳、御堂供養延引の事等評儀に及ぶ。陰陽道勘文を召す。六月廿三日たるべきの由、親職・泰貞・広経・晴賢・資俊等連署の勘文を献ずと云々。

◎四月小。○五日丙戌、二位家の御菩提のため、精舎供養を営まるるの間、布施取以下の事、評議を経らる。関東祗候の雲客・諸大夫等、当時在京分参向をなすべきの由、仰せ遣わさる。伊賀六郎右衛門尉光重奉行たりと云々。○七日戊子、晴。酉の刻地震。大倉御堂の地これを曵き始めらる。主計頭・駿河前司等参向し沙汰を致す。○八日己丑、霽。戌の刻大倉御堂の地において泰貞朝臣土公祭を勤む。陰陽師五人を結番せられ、造畢の日に至るまで、連日勤行すべきの由政所に仰せらると云々。○十一日壬辰、入道相摸三郎資時主(法名真仏)評定衆に加えらると云々。○十七日戊戌、番匠大工大夫長宗、召しにより京都より参着すと云々。○十九日庚子、晴。大倉新御堂上棟なり。将軍家(御布衣、御車)監臨せしめ給う。近江四郎左衛門尉氏信御剣を役す。本間式部丞元忠御調度を懸く。修理大夫・左京権大夫以下供奉す。大工散位長宗(束帯)引頭(束帯)を相具し参上す。事終わりて禄物等有り。大工分、(束帯)一具(平裹に納む)、被物五、十物十、馬二疋(一疋鞍を置く)。引頭五人分、おのおの被物三、五物五、馬一疋(黒漆の鞍を置く)。小工等分、おのおの被物一、三物三、馬一疋(鞍を置く)。檜皮葺大工分、被物三、五物五、馬一疋(鞍を置く)等なり。還御の次でをもって左馬頭義氏朝臣の家に入御す。御遊一に非ず。結句御酒宴の間、駿河二郎泰村・壱岐守光村兄弟相撲を召し決す。御入興の第一なり。諸人また目を悦ばしむ。左京兆申されて云く、左金吾将軍の御時、和田新左衛門尉・朝夷名三郎等召し合わさるといえども、勝負の儀なしと云々。よって雌雄を決すに及ばずと云々。その後御引出物あり。役人、御剣丹後守泰氏、御調度足利五郎、御甲駿河四郎左衛門尉・同五郎左衛門尉、南廷壱岐守。一御馬(鴾毛。鞍を置く)、畠山三郎・日記五郎。二御馬(黒)、新田太郎・太平太郎。夜に入り還御。随兵十騎、御車の前に列す。駿河次郎・梶原右衛門尉・河越掃部助・宮内左衛門尉・小笠原六郎・千葉八郎・上野七郎左衛門尉・近江四郎左衛門尉・遠江式部大夫・越後太郎。○廿二日癸卯、天晴る。申の刻日の色赤し。蝕の如し。今日将軍家左京権大夫亭に入御す。この御料のため御所(檜皮葺)を新造せらるるの間、渡御始めなり。御儲毎事過差と云々。御出の儀また殊に刷わる。供奉人清撰す。おのおのの行粧殊に花を折ると云々。供奉人、右馬権頭・北条大夫将監・前民部少輔・遠江式部大夫・宮内少輔・陸奥太郎・遠江三郎・足利五郎・長井左衛門大夫・主計頭・毛利蔵人・駿河前司・佐渡前司・駿河次郎・壱岐守・宇都宮修理亮・河越掃部助・和泉前司・摂津民部大夫・隠岐式部大夫・小山五郎左衛門尉・淡路四郎左衛門尉・上野七郎左衛門尉・関左衛門尉・佐渡帯刀左衛門尉・宇佐美与一左衛門尉・武藤左衛門尉・加藤左衛門尉・伊東三郎左衛門尉・肥前四郎左衛門尉・宮内左衛門尉・大見左衛門尉・大曽禰兵衛尉・近江四郎左衛門尉・河津八郎左衛門尉・和泉次郎左衛門尉・宇都宮四郎左衛門尉・出羽四郎左衛門尉・信濃三郎左衛門尉・内藤七郎左衛門尉・宗宮内左衛門尉・安積六郎左衛門尉・豊後四郎左衛門尉・弥次郎左衛門尉・梶原右衛門尉・和泉新右衛門尉・壱岐小三郎左衛門尉・駿河四郎左衛門尉・三浦又太郎右衛門尉。寝殿の南面において御酒宴。夜に入り、左京兆孫子の小童(字戎寿。故修理亮時氏の二男)、御前において元服の儀あり。先ず城太郎義景・大曽禰兵衛尉長泰等雑具を持参す。次いで駿河前司義村理髪に候す。次いで御加冠。次いで御引出物を進めらる。役人、御剣右馬権頭(政村)、御調度北条大夫将監(経時)、御行騰小山五郎左衛門尉(長村)、御甲駿河次郎(泰村)・同四郎左衛門尉(家村)、南廷長井左衛門大夫(泰秀)。一御馬(黒鹿毛。鞍を置く)、駿河五郎左衛門尉(資村)・同八郎(胤村)。二御馬(瓦毛)、相摸六郎(時定)・平左衛門三郎(盛時)。次いで駿河前司御引出物を賜る。御剣後藤佐渡前司(基綱)、御馬(栗毛・糟毛。鞍を置く)、南条七郎左衛門尉(時貞)・同兵衛次郎(経忠)。次いで将軍より新冠(五郎時頼と号す)に御引出物を賜る。御剣宮内少輔(泰氏)、御調度遠江式部大夫(光時)、御甲上野七郎左衛門尉(朝広)・同三郎(重光)。御馬(黒。鞍を置く)、近江四郎左衛門尉(氏信)・同左衛門太郎(長綱)。○廿三日甲辰、天晴る。日中還御。その期に臨み、左京兆また御引出物を進めらる。今日午の剋の二点より酉の剋の三点に至るまで、日の色食の如し。将軍家大いに驚き思食さる。司天の輩を召し、御寝所の東御壺において直に御尋ねあり。泰貞・晴賢・広経・晴貞・資俊等の朝臣申して云く、普通に非ずといえども、雲靄引き掩い去る時、西山に傾く日の色赤きことかくの如し。強ちに変異に処すべからず。但し旱魃の兆かと云々。宣賢申して云く、何れの年か春なし。何れの春か霞なし。もし霞に映えらるれば、霞は年々この変あるべきか。則ち建久薄食と定めらるるの間、仁王会呪願文に載せらると云々。同夜丑の刻。月光黄色なりと云々。○廿四日乙巳、霽。昨日の日光の事、親職朝臣薄蝕勘文を奉らしむ。天変に非ざるの由申す輩これ多し。

◎五月小。○十五日乙丑、御所において御占あり。これ大夫判官定員、去る春のころ上洛す。何日に帰参すべきかの由と云々。今月十八・九日に参着すべきの旨、晴賢・泰貞・資俊等一同にこれを申す。知輔十六・七日の間と云々。○十九日己巳、定員京都より帰参す。去月廿二・三・四日の間、日の色の事洛中これを怪しむ。廿三日天霽れ日の色赤し。石清水行幸あるによりその沙汰なし。翌日天文道(季尚・良光・業経)天変の旨奏聞せしむるの由、御前においてこれを申すと云々。○廿九日己卯、霽。去月廿三日日月共に赤黄の事、陰陽頭惟範朝臣薄蝕の由、京都よりこれを申す。宣賢の申状これに符合す。よって主計頭師員朝臣の奉行として、日曜祭を勤仕すべきの由仰せらる。この外御祈なり。はたまた季尚朝臣申して云く、霞に映えらるる日の色赤黄は定習なり。かつがつ建久、資元・晴光等薄蝕の由申すといえども、季弘朝臣更に変に非ざるの旨これを申すと云々。

◎六月大。○一日庚辰、矢部禅尼(法名禅阿)和泉国吉井郷の下文を賜るは、前遠江守盛連譲り附せしむるによってなり。かの御下文、五郎時頼三浦矢部の別庄に持ち向かわると云々。これ駿河前司義村の娘なり。始め左京兆の室として故修理亮を生む。後ち盛連の室として、光盛・盛時・時連等の母となると云々。○十一日庚寅、霽。二位家追善のおんため、大慈寺において一切経を供養す。導師助僧正厳海。題名僧六十口。舞楽あり。施主左京権大夫なり。将軍家御聴聞のため御出と云々。○十六日乙未、終夜甚雨。よって月食正現せず。○廿日己亥、京都大番勤否の事、厳密の沙汰に及ぶ。尋ね注進すべきの旨、六波羅ならびに諸国守護人に仰せらると云々。○廿二日辛丑、甚雨。明日新丈六堂供養あるべきにより、魔障を除かんがため、五壇法を修せらる。鎮壇供、助僧正厳海。五壇法、中壇安祥寺僧正良瑜、隆三世信濃法印道禅、軍荼利大夫法印賢長、大威徳佐僧都寛燿、金剛夜叉民部卿僧都尊厳。外典、大歳八神祭(知輔)、堂鎮(晴賢)、大土公(泰貞)、大将軍(国継)、王相(広資)、小土公(文親)。○廿三日壬寅、降雨滂沱。今日大慈寺郭内新造精舎(丈六を安んず)の供養なり。将軍家御出(御束帯)。行列、先陣の随兵十騎、小山五郎左衛門尉長村・佐原新左衛門尉光盛・河越掃部助泰重・佐竹八郎助義・筑後左衛門尉知定・和泉五郎左衛門尉政泰・上野七郎左衛門尉朝広・近江四郎左衛門尉氏信・相摸六郎時定・遠江式部大夫光時。御車。駿河五郎左衛門尉・同八郎左衛門尉・同太郎・狩野五郎左衛門尉・長内左衛門尉・那須左衛門太郎・平賀三郎兵衛尉・宇田左衛門尉・小河三郎兵衛尉・本間次郎左衛門尉。以上直垂を着し、剣を帯し、御車の左右に候す。御調度懸佐々木八郎左衛門尉信朝。御後(布衣)、右馬権頭・北条左近大夫将監・駿河守有時。宮内少輔泰氏・陸奥太郎実時・駿河前司義村・佐渡前司基綱・出羽守行義・淡路前司宗政・壱岐守光時・肥後守為佐・宇都宮修理亮泰綱・和泉前司政景・大和守祐時・筑後図書助時家・大友大炊助親秀・薬師寺左衛門尉朝村・淡路四郎左衛門尉時宗・駿河四郎左衛門尉家村・宇都宮四郎左衛門尉頼業・佐渡次郎右衛門尉基親・伊東次郎左衛門尉祐綱・梶原右衛門尉景俊・壱岐小三郎左衛門尉時清・笠間左衛門尉時朝・宇都宮新右衛門尉朝基・関左衛門尉政泰・信濃三郎右衛門尉行綱・伊賀三郎左衛門尉光泰・弥次郎左衛門尉親盛・河津八郎左衛門尉尚景・宇佐美藤内左衛門尉祐秀・和泉次郎左衛門尉景氏・出羽四郎左衛門尉光宗・長尾平内左衛門尉景氏・押垂左衛門尉時基・大曽禰兵衛尉長泰。後陣の随兵十騎、足利五郎長氏・越後太郎親時・城太郎義景・宇都宮四郎行綱・佐渡帯刀左衛門尉基政・隠岐次郎左衛門尉泰清・千葉八郎胤時・大須賀左衛門尉胤秀・佐原六郎兵衛尉時連・武田五郎四郎信時。検非違使、藤内大夫判官定員・近江大夫判官泰綱。最末、修理権大夫・左京権大夫。御参堂の後、供養の儀あり。七僧法会なり。導師南都東北院僧正円玄。呪願助僧正厳海。導師の布施卅物廿。又法服・横皮・香爐筥・童装束等なり。この外太相国禅閤より被物百重・鞍馬十疋、加布施に銀の檜扇に砂金百両を置く。また御剣等これを送進せらると云々。夜に入り事終わる。将軍家還御と云々。○廿五日甲辰、神社仏寺ならびに国司領家の訴えの事、関東の式目によるべからざるの旨定めらると云々。○廿六日乙巳、御所の御持仏堂において八講を始めらる。講衆十六口と云々。

◎七月小。○八日丁巳、江右近次郎久康の申請につき、神楽歌曲を久康に授けしむべきの旨、御教書を左近将監中原景康に遣わさる。これ鶴岳御神楽のためなり。○十日己未、神楽曲久康に授くべき事、景康領状の請文を進むと云々。○十一日庚申、晴。二位家十三年の御忌景なり。南小御堂において御仏事を修せらる。導師東北院僧正円玄。将軍家出御なし。匠作・京兆参り給う。大夫判官景朝(平礼。茶染の狩衣)奉行として御堂の西の大床に候す。○十九日甲午、北条五郎時頼始めて来月放生会の流鏑馬を射らるべきの間、この間初めて鶴岳馬場においてその儀あり。今日武州これを扶持せんがため、流鏑馬屋に出でらる。駿河前司以下の宿老等参集す。時に海野左衛門尉幸氏を招き、子細を談ぜらる。これ旧労の上、幕下将軍の御代、八人の射手の内たるか。故実の堪能人に知らるるの故か。よって射芸の失礼を見、諷諌を加うべきの旨、武州これを示めさる。射手の体もっとも神妙。およそ生得の堪能たるの由。幸氏これを感じ申す。武州なおその失を問わしめ給う。こと再三に及ぶ。幸氏なまじいにこれを申す。箭を挾むの時、弓を一文字に持たしめ給う事、その説なきに非ずといえども、故右大将家の御前において、弓箭の談議を凝らさるるの時、一文字に弓を持つ事、諸人一同の儀か。然れども佐藤兵衛尉憲清入道(西行)云く、弓をば拳より押立て引くべきの様に持つべきなり。流鏑馬、矢を挾むの時、一文字に持つ事は非礼なり、てえり。つらつら案ずるに、この事殊勝なり。一文字に持てば、誠に弓を引て、即ち射るべきの体には見えず。いささか遅き姿なり。上を少しき揚げて、水走りに持つべきの由を仰せ下さるるの間、下河辺(行平)・工藤(景光)両庄司、和田(義盛)・望月(重隆)・藤沢(清親)等の三金吾、ならびに諏方大夫(盛隆)・愛甲三郎(季隆)等すこぶる甘心す。おのおの異議に及ばず、承知しおわんぬ。然ればこればかりを直さるべきか、てえり。義村云く、この事この説を聞かしめ、思い出しおわんぬ。まさに耳に触るる事候き。面白く候と云々。武州また入興。弓の持様、向後この説を用うべしと云々。この後、その儀を閣き、一向弓馬の事を談ぜらる。義村わざと使者を宿所に遣わし、子息等を召し寄せこれを聴かしむ。流鏑馬・笠懸以下作物の故実、的・草鹿等の才学、大略淵源を究む。秉燭以後おのおの退散すと云々。○廿五日庚子、北条左親衛潜かに藍沢に赴く。今日始めて鹿を獲る。即ち箭口餅を祭る。一口三浦泰村・二口小山長村・三口下河辺行光と云々。○廿九日戊寅、晴。明年の御上洛の事、御沙汰を経らる。今日京都の使者参着す。去る十七日鷹司院御入内。これ御准母の儀なりと云々。

◎八月大。○四日壬午、霽。辰の刻大地震。○七日乙酉、評議あり。これ明春御上洛の間の事なり。かつがつ六波羅において建久の例に任せ、御所を新造せらるべし。国々に充てられ、悉くもってこれを施行せよ。今日京都の飛脚到着す。去る二日一品宮(当帝の御妹。御歳六)薨御の由これを申す。また去月廿七日摂禄御上表と云々。○十三日辛卯、霽。六波羅の飛脚参る。申して云く、去る五日。四天王寺執行の一族上座覚順二百余人を引卒し、天王寺を保らんと欲するの間、渡部党相戦うの間、覚順已下九十三人討ち取られおわんぬ。余兵所々において生虜せらる。金堂已下放火すといえども、皆打ち消すと云々。○十五日癸巳、鶴岳放生会。将軍家御参宮。午の刻御出。晴賢御身固に候す。備中蔵人陪膳たり。すでに御車を寄す。前民部少輔御剣役として庭上に下る。また直垂を着し帯剣せしむる六位十五人階間の西方に候す。時に駿河前司申して云く、御出の間、帯剣の輩は承久元年正月宮寺において事あるにより、この儀を始めらる。これ近々に候し守護し奉るべきの故なり。しかるを今日、その役人の内。勇敢の類少なし。御共に進むべしと云々。よって二郎泰村・四男家村・五男資村・六男胤村等布衣の行粧を直垂に改め参進し、かの衆に加わる。駿州傍若無人の沙汰。人耳目を驚かすと云々。その後御出。法会舞楽等例のごとし。還御の後、夜に入り、明月に対し当座の和歌御会に在り。右馬助・相摸三郎入道・主計頭・加賀前司・大夫判官定員・伊賀式部大夫入道・城太郎等その座に候す。また広資(陰陽師)追って参加す。○十六日甲午、霽。将軍家御参宮。大夫判官景朝(束帯)・伊豆判官頼定(布袴)等供奉す。馬場の儀を行わるるの間、北条五郎時頼主流鏑馬を射らる。佐渡前司基綱以下の五位流鏑馬の的立役。河津八郎左衛門尉尚景・佐々木七郎左衛門尉氏綱以下の衛府、十列・競馬(十番)の役たり。行粧おのおの花美を極むと云々。別の御願により、この結構に及ぶと云々。○十八日丙申、暮雨雷鳴。今日将軍家山館に御遊行あるべきの由、その沙汰ありといえども、雷雨により延引すと云々。

◎九月大。○十一日己未、子の刻地震。○十五日癸亥、霽。大夫判官定員御使として上洛す。これ太閤来月御物詣あるべきの間、旅行の御調度を進めらるるによってなり。○十六日甲子、信濃国諏方社明年五月会神事等その沙汰ありと云々。○廿三日辛未、丑の刻地震。○廿四日壬申、子の刻地震。○廿九日丁丑、卯の刻光物流星ありと云々。

◎十月小。○四日壬午、天変の御祈等これを行わる。○九日丁亥、未の刻白雲天を亘る。○十六日甲午、信濃国善光寺五重の塔婆供養なり。浄定上人大勧進たり。勧進知識奉加すと云々。導師等大弐律師円仙・呪願斉円能登阿闍梨。この事により、去る五日別当勝舜本寺より下着すと云々。○十九日丁酉、駿河掃部権助泰村、御所において盃酒を献ず。匠作・京兆以下群集すと云々。○廿五日癸卯、大夫判官定員京都より帰参す。去る二日大殿・准后・太政入道、天王寺御参のための万燈会供養と云々。

◎十一月大。○一日戊申、霽。将軍家二所御精進を始めらる。○七日甲寅、小雨降る。辰の刻御進発。丑の刻甚雨洪水。稲瀬河辺の民屋数十余宇流出す。下女二人漂没すと云々。○八日乙卯、筥根御奉幣。御経供養あり。導師大納言律師隆弁(この事により、鎌倉より召し具せらる)。○九日丙辰、三島。○十一日戊午、伊豆山。○十二日己未、天霽る。二所より還御。○十六日癸亥、子の刻月填星を犯すと云々。○十七日甲子、駿河式部丞泰村奥州の駒五疋を御所に献ずと云々。

◎十二月大。○一日戊寅、雨降る。日蝕正現せず。昨日天晴る。夜半以後陰雲。丑寅の刻より雨降る。蝕の時分愛染・金剛如法仏(五指量)を造立せらる。主計頭これを奉行す。○二日己卯、昨日蝕の御祈勤行の僧三人、今日御所に召さる。おのおの銀剣一腰を賜る。伊勢守定員これを奉行す。○十日丁亥、日月蝕及び天変重畳の御祈のため、御所において属星の御祭を行わるべし。将軍家祭の庭に出御あるべきにより、今日晴賢これを奉仕せんがため参籠す。右大将家・右府将軍等の御時の例に任せ、重軽服人参入すべからざるの由、仰せらると云々。○十二日己丑、天晴る。今日金窪右衛門大夫行親に仰せ、御所巽の角を掃除せらる。御祭を行わるべきによってなり。亥の剋晴賢朝臣これを奉仕す。将軍家束帯を着し出御す。御拝あり。内蔵権頭資親奉行として、卅夜これを行わるべし。毎度出御あるべきの由と云々。○十三日庚寅、晴。左京兆室家の母尼追福のため、かの山内の墳墓の傍らにおいて一梵宇を建てらる。今日供養の儀あり。導師荘厳房律師行勇。匠作・遠江守聴聞せしめ給う。○十五日壬辰、陰。雨下る。今夜月蝕現れず。この蝕現るべからざるの由、天文道日来これを申し入ると云々。