嘉禎二年(丙申)

◎正月小。○一日己未、晴。椀飯(相州の御沙汰)。今日御簾を上げられず。御歓楽により、出御なきの故なり。御剣陸奥式部大夫政村、御弓矢越後太郎光時、御行騰・沓相摸式部大夫朝直。一御馬(鞍を置く)、隠岐三郎左衛門尉・同五郎左衛門尉。二御馬、佐原新左衛門尉・同十郎。三御馬、相摸五郎・本間三郎左衛門尉。四御馬、原右衛門尉・同五郎。五御馬、相摸六郎・吉良次郎。○二日庚申、霽。椀飯(武州の御沙汰)。御剣相摸式部大夫、御弓矢駿河次郎泰村、御行騰・沓城太郎義景。一御馬(鞍を置く)、出羽三郎左衛門尉・同四郎左衛門尉。二御馬、信濃次郎左衛門尉・同三郎左衛門尉。三御馬、弥次郎左衛門尉・夜叉左衛門尉。四御馬、南条七郎左衛門尉・同兵衛尉。五御馬、上野七郎左衛門尉・同五郎。○三日辛酉、霽。椀飯(越州の沙汰)。御剣陸奥式部大夫、御弓矢大須賀左衛門尉。御行騰沓摂津四郎左衛門尉。一御馬、隠岐四郎左衛門尉・同五郎左衛門尉。二御馬、信濃左衛門尉・同三郎左衛門尉。三御馬、南条七郎左衛門尉・同太郎兵衛尉。四御馬、平左衛門次郎・同三郎。五御馬、越後太郎・海老名左衛門尉。○九日丁卯、将軍家御疱瘡の後、今日御沐浴の儀あり。行勇僧都御湯を加持す。良基朝臣御馬・御剣・御衣等を賜る。また夜に入り御祈を始行せらる。五壇法、弁僧正(定豪)伴僧を率いこれを修す。百日泰山府君祭、陰陽助忠尚朝臣奉仕す。天曹地府、大監物宣賢これを勤むと云々。○十七日乙亥、将軍家御疱瘡の余気により、御股・御膝の腫物(押領使と号す)廿余ヶ処出でしめ給う。今日女房石山局良基朝臣を召し、何様の御事たるべきかなの由仰せ合わせらる。殊なる御事あるべからずと云々。いささか療治を加え奉る。○十九日丁丑、御不例の余気により、御祈のために冥道供を行わる。宮内卿僧都承快これを修す。また七壇炎摩天供ありと云々。○廿日戊寅、御所において七座の招魂祭を行わる。また大属星供。珍誉法印これを奉仕す(三夜たるべし)。○廿一日己卯、武州御所に参り給う。盃酒を献ぜらる。相州以下の人々参加せらる。○廿三日辛巳、足利左馬頭また椀飯等を献ずと云々。

◎二月大。○一日戊子、御不例の余気散ぜしめ給わざる事。もしくは土公祟を成し奉るかの由、有職の人々これを申すにより、武州の御沙汰としてその祭を行わる。夜に入り、御所において、晴賢朝臣これを奉仕すと云々。今日上野入道日阿御所において下若等を進む。○二日己丑、亥の刻、西方に雷鳴。今日相州御所において経営す。武州・駿河前司等参らる。盃酒数献。公私興を催すと云々。およそこの事連日の儀たり。御不例殊なる御事なきによってなり。○三日庚寅、駿河前司盃酒を進む。両国司参らる。児童十七人召によりその座に候す。夜に入り如法泰山府君祭を行わる。忠尚朝臣これを奉仕す。○十日丁酉、午の刻、雷鳴甚雨。○十四日辛丑、右近将監多好節和琴・太笛等を調進す。武州殊に自愛せしめ給う所なり。○廿二日己酉、伊与国宇和郡の事。薩摩守公業法師の領掌を止め、常磐井入道大政大臣家の領に付けらるる所なり。これ年来彼の褝閤これを望み申さるといどもも、公業先祖代々知行す。なかんづく遠江掾遠保勅定を承り、当国の賊徒純友を討ち取りて以来、当郡に居住す。子孫に相伝せしむること年久し。咎なくして召し放たるべからざるの由、頻りにもって愁歎す。御沙汰はなはだ是非を顕し難し。左右なく仰せ切られざるのところ、去るころ禅閤の御書状重ねて参着す。この所望事行かざるは、老後の眉目を失うに似たり。今においては、わざと下向せしめ、所存を申さるべきの趣、これを載せらる。御下向の条、還って事の煩いたるべきにより、早く御管領あるべきの旨、今日彼の家司(陸奥入道理繆と号す)の許に仰せ遣わさると云々。○廿八日乙卯、亥の刻地震。今日六波羅の飛脚ならびに大夫判官基綱の使者参着す。申して云く、去る十四日基綱木津河の北に向かい、使者を河の南(神木の御座処)に遣わすのところ、衆徒皆来臨するの間、御成敗の趣、具に問答す。衆徒一一承伏す。よって同廿一日、神木を本社に帰座し奉る。翌日廿二日、殿下の御亭充三儀を行わる。同じく御参内を刷うと云々。

◎三月小。○三日庚申、甚雨雷電。○七日甲子、下総前司源保茂をもって男山内守護となし、甲乙人の狼藉を停止すべきの旨、去年五月。仰せ付けらるといえども、保茂いささか申す子細あり。今に罷り向かわず。宮寺頻りに言上するの間、先日の御意に任すべきの由、今日重ねて仰せ下さると云々。○八日乙丑、去月晦の除目聞書到着す。相州修理権大夫に任じ、兼字を賜わる。即ち自ら御所に持参し給うと云々。○十二日己巳、去る四日の下名に、武州従四位下に叙せしめ給う。聞書到来す。御所に参賀し給う。○十三日庚午、武州陰陽助忠尚朝臣を召し、密々仰せられて云く、四品の事。朝恩の至、自愛せしむといえども、労功なく忽ちにこの位を受くるは、天運猶危し。頗る己を量らざるに似る。早く事の由を泰山府君に敬白し奉るべしと云々。忠尚衣冠。南庭において彼の祭を勤行す。祭文の草、法橋円全。清書、斉藤兵衛入道浄円。武州(浄衣。立烏帽子)庭上において拝せしめ給うと云々。○十四日辛未。霽。若宮大路の東に御所を立てらるべきにより、来たる廿五日。御本所として田村に御一宿あるべきの間、太白の方に当たるや否や、方角を糺すべきの由、駿河前司に仰せらる。よって陰陽師を武蔵大路の山峰に相伴い、これを糺さしめて帰参す。田村もしくは戌の方分か。正方西に相当らざるの旨これを申す。申の刻、将軍家御行始。武州の御亭に入御す。駿河前司義村御釼を持つ。越後守・陸奥右馬助・同太郎・民部少輔・相摸式部大夫・摂津前司・周防前司・三条前民部権少輔・左近蔵人・源判官以下供奉すと云々。○廿日丁丑、幕府ならびに御持仏堂等を若宮大路の東頬に新造せらるべき事、今日御所においてその定あり。日次以下の事。陰陽道の勘文を召す。晴賢・文元等連署せしむる所なり。○廿一日戊寅、南都の事、寺社門戸を開き、神木帰坐す。使節の功たるの由、殊にその沙汰あり。御感御書を後藤大夫判官基綱(当時在京す)の許に遣わさると云々。また南都の住侶に武蔵得業隆円という者あり。その志を武家に運らし奉る。よって六波羅駿河守ならびに使節基綱、内々に隆円に談ぜらるるの旨あるの間、衆徒に対し、関東の威勢を輝かせ、潜かにまた諷詞を加う。これにつき蜂起忽ちに静謐しおわんぬ。基綱その趣を注進せしむるにより、今日同じく感じ仰せ遣わさる。およそ世のため寺のため、関東のおんため、第一の奉公なり。もっとも感じ思食すと云々。

◎四月小。○一日丁亥、午の刻、鶴岳若宮に羽蟻群集す。子の刻地震。○二日戊子、若宮大路御所造営の木作始なり。大工束帯を着し参入す。事終わり、酒肴・禄物等を賜ると云々。今日宮寺羽蟻の事御占あり。病の事を慎ましめ給うべきの由、六人一同にこれを申すと云々。○四日庚寅、将軍家御方違のために、小山下野入道生西の若宮大路の家に渡御あるべきの由、その沙汰あり。彼の家先年焼亡す。更に新造の後、未だ入御に及ばず。何様たるべきかなの旨、藤内大夫判官定員の奉行として、人々に尋ねらる。かくのごとき事両様あり。所謂安家の説は、本処を塞ぎの方に儲く。その憚りありといえども、賀家の説は、一宿の後、仮に券契を取りこれを用う。その説に付き渡御するは巨難あるべからざるの由、知宗・親行・季氏等これを申す。この上なお晴賢・文元等に問わる。憚あるべきの旨、一旦これを申すといえども、便宜の辺に用いらるべき御本所の屋なきの間、宥め用いらるべきの由またこれを申す。但し彼の家御所より坤に相当たる。今日太白の方たるかの間、将軍家直に御疑あり。晴賢等丈尺を打ち算勘せしむ。丁の方たるの由申さしむるにより、夜に入り生西の家に渡御すと云々。○六日壬辰、巳の刻、前駿河守従五位下藤原朝臣季時法師(法名行阿)卒す(年)。去月廿七日以後病悩。時行と脚気と計会すと云々。○八日甲午、将軍家伊豆国小名温泉に渡御あるべきにより、来たる十七日をもって御進発の日に定めらる。しかるを去る一日若宮の蟻の怪異の事、動揺不安の由、占い申すの上、また宿曜師珍誉法印遠行御愼あるべきの旨言上す。陰陽師不快の由占い申す。よって今日議定あり。遂に思食し止むと云々。○十一日丁酉、御所において御祈等を行わる。これ鶴岳宮寺の怪によってなり。○十四日庚子、将軍家御方違のために、下野入道の家に渡御す。これ四十五日の御連宿あるべきの由と云々。○廿日丙午、弁僧正祈雨の御祈を奉わり鶴岳八幡宮に参籠すと云々。○廿三日己酉、風雨甚し。但し炎早旬を亘るの間、この雨なお国土を潤すに及ばず。然れども法験を賞せられ、御馬を僧正坊に遣わさる。押垂左衛門尉御使たり。

◎五月大。○五日庚申、霽。鶴岳宮の神事例のごとし。将軍家御参。○廿四日己卯、新造御所の築地、七月中に修功すべきの旨、これを定めらる。佐渡守基綱・藤内大夫判官定員奉行たりと云々。○廿五日庚辰、武州伊豆国に下向せしめ給わんがため、出門の儀あり。来月一日北条に入るべし。五月中その憚りあるによってなり。○廿七日壬午、武州進発せらる。これ故右京兆の十三年に相当たるにより、北条において御仏事を修せられんがためなり。

◎六月大。○五日庚寅、霽。新造御所の御持仏堂立柱。夜に入りその地において土公祭を行わる。晴賢朝臣これを奉仕す。今日武州北条において右京兆十三年の追善を修し給う。正日来たる十三日たりといえども、故にこれを引き上げらる。この間、願成就院北の傍らに、塔婆を建立す。本尊則ち大日・釈迦・弥陀等の尊像なり。曼茶羅供を行い、供養の儀を遂げらる。大阿闍梨荘厳房僧都行勇。讃衆十二口。右馬助・民部少輔等阿闍梨の布施を取る。駿河・伊豆両国以下の御家人群参し作善す。武州殊に丁寧の沙汰を致さしめ給うと云々。○六日辛卯、若宮大路新御所の築地これを始む。よって連日土公祭を行うべきの由、仰せ下さると云々。○十一日丙申、霽。戌の刻地震。その後、将軍家(御直垂)門外の西東の堀の辺りに出でしめ給う。御除服の儀あり。晴賢朝臣御秡を勤む。佐房陪膳。これ御妹の姫君御前(御年十二。准后の御腹)卒し給うによってなり。外祖太相国禅室御猶子となすと云々。夜半に及び武州北条より帰らしめ給うと云々。○廿二日丁未、亥の刻地震。○廿五日庚戌。去る夜々半。〓惑【けいわく】両変を現すの由、天文道等大膳大夫師員に属きこれを申すと云々。○廿六日辛亥、明日新御所の柱立あるべきにより、信濃民部入道行然の奉行として、師員の屋形に御方違あるべきかの事、御沙汰に及ぶ。これ新御所当時の御所(生西の家)より正北方に相当たるの間、明日太白の方一夜の御方違あるべきの故なり。また本の御所(宇都宮辻子)より当時の御所乾の方かの由御疑あり。方角を糺すべきの旨、行然に仰せらる。よって忠尚・晴賢・国継相共に師員の家に向かい、丈尺を打たしむ。乾の方に非ざるの由、おのおのこれを申す。亥の刻。将軍家御方違のために、大膳大夫師員の屋形に入御す。御儲の儀殊に奔営す。御引出物数ありと云々。○廿七日壬子(七月節)、天晴れ、風静かなり。巳の刻地震。今日若宮大路の新御所寝殿以下の屋々立柱上棟。伊賀式部大夫入道光西・信濃民部大夫入道行然・清左衛門大夫季氏等奉行たり。○廿八日癸丑、大納言阿闍梨隆弁を召し、御所において如意輪護摩を修せらると云々。

◎七月小。○十日乙丑、晴。新御所の門々を建てらる。今日大膳権大夫師員・伊賀式部大夫入道光西・藤内大夫判官定員等の奉行として、御所において新御所御移徙の間の事その沙汰あり。また陰陽師等を召し聚む。忠尚・定昌・泰貞・晴賢・宣友・晴茂・宣賢・広資・国継西廊の縁に参進す。一の座より次第に尋ね仰せられて云く、来月四日新御所の御移徙たるべきなり。先ず白地に武州亭に入御ありて、件の亭より御移徙の条、大将軍の方の禁憚るべきや否や、計らい申すべし、てえり。定昌・泰貞・晴賢・宣友以下申して云く、これ白地の儀、方の禁移るべからず。更に憚りなし。且つがつ王相方当時の御所より御沙汰あるべきの御事なり、てえり。陰陽助忠尚朝臣・前主計助広資甘心せざるの由を申すといえども、数輩一同するの上は、左右あたわずと云々。これ当時の御所(生西の家)は、半作の間、未だ門の立織戸なし。よってこれより御移徙として御出あるの条、その礼整うべからず。武州の御亭より御出するは、殊に御本意たりと云々。○十七日壬申、佐々木近江二郎左衛門尉高信と日吉社神人との喧嘩の事により、神輿頂戴の張本を召し出ださるべきの由、武州頻りに申し行わるといえども、山徒確執し蜂起するの間、召さるべからざるの旨、今日重ねて御沙汰を経られ、座主宮に申さると云々。高信ならびに神輿を防ぎ留め奉らんと欲するの勇士等は、衆徒の訴訟につき、即ち流刑に処せられおわんぬ。これ追って張本を召さるるは、専ら後昆を誡められんがためなり。よって両門已下交名を注し出す。俄に無道の衆会を成すの間、縦い堂社に閉じ籠もらしむといえども、自業罪報となるべきの由評議に及ぶ。情言あらば、諷諌を加えらるべきの趣仰せ遣わさる。且つがつ承久京方の族、諸社の別当・祠官に至るまで、分々の罪科、一々これを遁れず。しかるを山僧の張本は、傍輩を超ゆといえども、終にもってこれを宥す。豈に優恕を施すに非ざらんや。今度の張本においては、かたがたその咎を免ぜられ難きの由、御教書に載せらると云々。また信濃国善光寺地頭職の事、右大将家の御時、淡路前司宗政申請により、これに補任すといえども、その煩いあるの由、寺僧訴訟に及ぶの間、承元四年八月十一日これを止められおわんぬ。しかるをなお宗政の代官等張行せしむるの由、住僧愁い申すにつき、停止せしむべきの旨仰せ下さると云々。○廿四日己卯、南都騒動の間、在京人ならびに近国の輩、一族を催し具し、警衛の忠を抽ずべきの旨仰せ下さること先におわんぬ。一類相従わざるの由、近日諸家よりその訴出来するにより、向後大番以下かくのごとき役、早く一門の家督に相従うべきの旨、今日重ねてこれを定めらる。図書左衛門尉奉行たり。今日御移徙の事、またその沙汰あり。武州亭の西の妻に、三日夜御一宿あるべしと云々。○廿五日庚辰、石清水領讃岐国本山庄足立木工助遠親知行の地頭職を止められ、一円に宮寺に付けらると云々。

◎八月大。○三日丁亥、霽。戌の刻、新御所において鎮御祈を行わる。大歳八神(泰貞朝臣)、宅鎮(晴賢)、大土公(晴茂)、大将軍(宣賢)、王相(国継)、井霊(広資)、厩鎮(道氏)。七十二星・西岳真人鎮、忠尚朝臣里亭において勤行するの後、鎮物を持参するのところ、伊賀六郎右衛門尉をもって仰せられて云く、本の御所新造の時、この両鎮、故国道朝臣御所おいて勤行す。しかるを今私宿において勤仕するは然るべからずと云々。忠尚申すの旨なく、退出すと云々。○四日戊子、天晴れ、風静かなり。戌の刻、将軍家若宮大路の新造御所御移徙なり。武州の御亭より渡御(御束帯)。御乗車。前大監物文元に仰せ、轅の内に参り反閇を勤む。新御所の南門より入御す。御車門内に入り、二丈余を経るの後下御。安芸右馬助御榻を役す。木工権頭御沓を献ず。前民部権少輔親実衣の御裾を取る。備中左近大夫・美作前司等松明を取る。二条侍従教定・一条大夫能清等預〔予め〕階下に候す。先ず黄牛を牽く。押垂三郎左衛門尉晴基・野本太郎時秀等これを役す(牛童一人相副う)。次いで水火の役人参進す。水、壱岐五郎左衛門尉行方。火、伊賀六郎左衛門尉光重等なり。次いで陰陽助忠尚朝臣(束帯)反閇に候す。庭中において呪を唱う。西廊を昇り、二棟御所の南縁を経、寝殿(五間四面)南面中の間に入御す。南に向き着御。水火前行し、同間に入りおわんぬ。五菓(栗・柿・甘子・棗、高月一本に盛る。木をもってこれを造る。鶴松を図す。折敷兼ねてこれを置く)を供す。酒坏(片口の銚子に入れ、折敷の上に置く。銚子蓋を覆う)。次いで忠尚階隠の砌において禄(生単重)を賜る。木工権頭仲能これを取る。次いで椀飯の儀あり。相州・武州西侍に出給う。また吉書を覧ず。武州これを持参し給う(覧箱の蓋に納む。信濃次郎左衛門尉これを伝う)。事終わりて退出せしむ。今日の供奉人。前駆、木工権頭仲能・前民部権少輔親実・備中左近大夫・前美作守・右馬権頭政村。御剣役人、相摸権守。御調度懸、安積六郎左衛門尉。御甲着、長太右衛門尉。御後五位六位(布衣下括)、遠江守・民部権少輔・陸奥太郎・北条弥四郎・足利五郎・遠江太郎・駿河前司・大膳権大夫・長井左衛門大夫・毛利左近蔵人・周防前司・伊豆判官・安芸右馬助・佐渡守・宇都宮修理進・町野加賀前司・大和守・上総介・河越掃部助・筑後図書助・豊前大炊助・上野七郎左衛門尉・同五郎・薬師寺左衛門尉・淡路左衛門尉・後藤次郎左衛門尉・同四郎左衛門尉・関左衛門尉・下河辺左衛門尉・佐原新左衛門尉・笠間左衛門尉・宇都宮左衛門尉・伊東左衛門尉・大曽禰太郎兵衛尉・同次郎兵衛尉・信濃次郎左衛門尉・同三郎左衛門尉・隠岐四郎左衛門尉・藤四郎左衛門尉・梶原右衛門尉・近江三郎左衛門尉・葛西壱岐左衛門尉・加地八郎左衛門尉・宇佐美藤内左衛門尉・河津八郎左衛門尉・武藤左衛門尉・摂津左衛門尉・出羽四郎左衛門尉・加藤次郎左衛門尉・紀伊次郎衛門尉・広沢三郎左衛門尉・小野寺四郎左衛門尉・平賀三郎兵衛尉・狩野五郎左衛門尉・春日部左衛門尉・相馬左衛門尉・宮内左衛門尉・弥善太郎左衛門尉・駿河次郎。直垂、駿河四郎左衛門尉・同又太郎左衛門尉・上総介太郎・大須賀次郎左衛門尉・大河戸太郎兵衛尉・伊賀六郎左衛門尉・佐々木近江四郎左衛門尉・波多野中務次郎・内藤七郎左衛門尉・江戸八郎太郎・宇田左衛門尉・筑後四郎左衛門尉・長掃部左衛門尉・渋谷三郎・南条七郎左衛門尉・中野左衛門尉・平左衛門三郎・本間次郎左衛門尉・小河三郎兵衛尉・飯冨源内。検非違使、駿河大夫判官・藤内大夫判官・遠山判官。○五日己丑、匠作・武州新造の評定所に参らる。評議始あり。その衆皆参。但し出羽前司家長所労により不参。先ず御勤仕の輩を定めらると云々。よって御祈始あり。権暦博士定昌河臨秡を奉仕す。御移徙の後三ヶ日御祈を始めらるるの条、先例覚悟せざるの由、内々に傾き申すの族ありといえども、御許容なし。酉の刻、政所始あり。匠作・武州参り給う。行然御馬(鞍を置く)・御剣等を両所に進むるなりと云々。○六日庚寅、天晴る。新造御所の御弓始なり。匠作・武州以下の人々布衣を着し庭上に候せらる。将軍家簾中において御覧。周防前司申次たり。射手、一番、駿河次郎・佐々木四郎左衛門尉。二番、下河辺左衛門尉・横溝六郎。三番、小笠原六郎・藤沢四郎。今日、内法の御祈始なり。功徳院僧正(快雅)奉仕するの上、鶴岳別当・供僧等に仰せらると云々。また御湯殿始の儀ありと云々。○九日癸巳、天霽。将軍家御移徙の後、御行始の儀あり。武州第に入御す。御直衣。御車なり。供奉人去る四日に同じ。但し延尉光行〔光村〕の随兵最末に在りと云々。随兵十二人、北条弥四郎・上野七郎左衛門尉・足利五郎・河越掃部助・近江三郎左衛門尉・葛西壱岐左衛門尉・河津八郎左衛門尉・宇佐美藤内左衛門尉・梶原右衛門尉・相馬左衛門尉・三浦駿河次郎・武田六郎。○十五日己亥、鶴岳放生会。将軍家御出。法会舞楽恒のごとし。○十六日庚子、将軍家同上下宮に御奉幣す。その後流鏑馬以下、馬場の儀あり。廷尉定員埒門の辺りに候す(子息定範を具す)。○廿日甲辰、南都の衆徒また蜂起するの由、飛脚到来するの間、これを相鎮めんがため、佐渡守基綱上洛の使節の事を奉わる。よって今日出門。明暁進発すべしと云々。○廿五日己酉、寅の刻、前出羽守従五位下藤原朝臣家長卒す(年七十二)。○卅日甲寅、新造御所において恩沢の沙汰あり。大膳権大夫師員これを奉行す。

◎九月大。○一日乙卯、天晴る。子の刻、〓惑【けいわく】、輿鬼星を犯す。○三日丁巳、去る承久三年の合戦の間、本領を給うべしと称し、勲功の賞に漏るるの輩の事、愁い申すにつき、その沙汰あり。但し当時然るべきの地なし。追って御計あるべきの旨、申さると云々。○五日己未、今日近江入道虚仮評定衆を辞し、俄にもって上洛す。これ潜に遁世の企てありと云々。○七日辛酉、戌の刻、月、建星を犯す(相去ること一尺の所)。○八日壬戌、〓惑【けいわく】、鬼積尸星に入犯す。○九日癸亥、京都の使者参着す。これ去年七月廿三日、日吉神輿下洛の時、防ぎ留め奉らんと欲するの武士右衛門尉遠政、ならびに喧嘩の本人近江次郎左衛門尉高信等の事、宣下の上は、関東の御計らいとして、山門の欝陶を慰めんがために、流罪に処せられおわんぬ。山徒の張本に至っては、またその身を召し出し、後昆を誡めらるべきの旨、奏聞せらるるの間、七社神輿造替の後、その張本を召さるるのところ、去月八日新造の神輿を中堂に振り上げ奉り、訴え申すにより、同廿八日勅免の綸旨を下さるるの由、これを告げ申さると云々。○十日甲子、遠江守朝時朝臣評定衆に加わるの後初めて出仕す。この事庶幾わざるの由、内々難渋すと云々。○十三日丁卯、天変の御祈として七壇北斗護摩を修せらる。弁僧正・功徳院僧正・鳥羽法印以下これを奉仕す。大膳権大夫奉行たりと云々。○廿八日壬申、亥の刻、風雨甚し。西南方雷電。

◎十月小。○二日丙戌、霽。六波羅の飛脚参着す。申して云く、去月中旬の比より、南都蜂起す。城郭を構え合戦を巧みにす。六波羅使者を遣わし相宥むといえども、いよいよ倍増すと云々。○五日己丑、評議を経られ、南都の騒動を鎮めんがため、暫く大和国に守護人を置き、衆徒知行の庄園を没収し、悉く地頭を補せられおわんぬ。また幾内近国の御家人等を相催し、南都の道路を塞ぎ、人々の出入を止むべきの由議定有り。印東八郎・佐原七郎以下殊勝勇敢壮力の輩を撰び遣わさる。衆徒もしなお敵対の儀を成せば、更に優恕の思いあるべからず。悉く討ち亡ぼさしむべしと云々。且つがつおのおの死を致さんと欲すべきの由、東士においては、直に仰せ含められ、京畿に至りては、その趣を六波羅に仰せらる。また南都領の在所、悉く知食さるべからざるのところ、武蔵得業隆円密々にその注文を佐渡守基綱に与う。基綱関東に送進するにつき、地頭に新補せらると云々。○六日庚寅、大和国守護職等の御下文、六波羅に遣わさると云々。○十三日丁酉、霽。御所において天変(去月廿七日太白南斗第四星)の御祈を行わる。太白星祭泰貞朝臣これを奉仕す。武州の御沙汰なり。伊賀六郎右衛門尉御使たり。天地災変祭、匠作の御沙汰。広経これを勤む。広経去るころ始めて下向すと云々。○廿九日癸丑、下総前司保茂日来参候し、凪夜の功を抽ず。しかるを男山守護の事を奉わり、上洛するの間、武州御主餞別の儀あり。剰え毎事扶持を加うべきの旨六波羅の駿州の許に仰せ遣わさると云々。

◎十一月大。○一日甲寅、霽。未の刻、六波羅の飛脚参着す。南都去月十七日夜城郭を破り退散す。これ所領においては地頭に補せられ、関を塞がるるの間、兵粮の計らいを失い、人勢を聚め難きの故なりと云々。○十三日丙寅、小雨灌ぐ。六波羅の飛脚到着す。南都の蜂起既に落居す。去る二日より、僧綱巳下寺に帰り、寺門を開き、仏事を行うと云々。○十四日丁卯、匠作・武州評定所に着し給う。その衆参進す。南都の事沙汰あり。衆徒静謐の間、大和国の守護地頭職を止め、元のごとく寺家に付けらるべしと云々。○十五日戊辰、評儀あり。これ去る二日、東寺長者親厳僧正入滅す。鶴岳別当僧正定豪をもってその替りとなすべきの由、殿下内々の御教書、昨日到来するの間、上洛せらるべきや否や、沙汰あり。しかるを長者に補するは、関東の眉目たり。僧正の本意たり。然るべきの由治定すと云々。よって当座より大和前司・佐藤民部大夫等を遣わし、事の由を僧正に触れ仰せらると云々。○廿二日乙亥、霽。将軍家御方違。蔵人大夫入道西阿の宿所に入御す。これ御持仏堂の造営、その所御寝所より北方の分かの由御疑あるによってなり。○廿三日丙子、将軍家還御。蔵人大夫入道御引出物を献ず。役人、御剣左衛門大夫泰秀、砂金駿河次郎泰村、御馬(鞍を置く)毛利新蔵人泰光・岩崎左衛門尉等これを引く。○廿四日丁丑、晴。戌の刻町大路失火。南北十余町災う。筑後左衛門尉・中民部太郎以下の人家の災勝て計うべからず。○廿五日戊寅、霽。御持仏堂供養。導師弁僧正定豪。密に供養するなり。御本尊は六条法印院円京都において造立し奉る。日次の事、一条殿において沙汰を経らる。去る四月廿三日賀茂祭の日これを始め奉る。これ初例なりと云々。

◎十二月小。○三日丙戌。晴。京都の使者参着す。去月廿二日、将軍家民部卿に任ぜしめ御すと云々。○六日己丑、霽。大膳権大夫の奉行として、陰陽師等を御所に召す。歳末年始雑事の日時これを勘じ申す。御煤払の事相論あり。文元朝臣申して云く、新造は三ヶ年の内、その憚りあるべしと云々。親職・晴賢等の朝臣云く、先達は指したる文なしといえども、皆記し置く所なり。新造に至ては煤なきの故か。煤あらば払うべきかと云々。所詮この条証拠なし。然れば煤払の御沙汰なきは宜かるべきかの由、仰せ出さるるの間、おのおの子細を申さざるなり。夜に入り将軍家御馬三疋(皆鞍を置く)・砂金五十両・紺絹百端を弁僧正に遣わさる。これ明暁上洛すべきによってなり。匠作・武州已下皆悉く餞物を遣わさるるなり。○七日庚申、晴。弁僧正上洛。親厳僧正入滅の替わりとして、東寺長者に補すべきによってなり。○十一日甲午、新丹後守泰氏龍蹄を御所に進献す。国司の事賀し申すの由と云々。○十九日壬寅、亥の刻、武州の御亭御移徙なり。日来の御所の北方に新造せらるる所なり。檜皮葺の屋ならびに車宿を建てらる。これ将軍家の入御のためと云々。御家人等同じく家屋を構う。南門の東脇、尾藤太郎。同西、平左衛門尉。同西、大田次郎。南角、諏方兵衛入道。北土門の東脇、万年右馬充。同西、安東左衛門尉。同並、南条左衛門尉宅等なりと云々。○廿三日丙午、夜に入り駿河次郎の妻室(武州の御妹)早世。よって武州御軽服の間、平左衛門尉の小町の宅に移住せしめ給うと云々。今夜、太白、辰星を犯す(相去ること二尺許)。○廿六日己酉、去る十八日の除目聞書到着す。武州左京権大夫を兼ね給う。師員主計頭に任ず。また施薬院使丹波良基朝臣正四位上に叙し、和気清成朝臣を超越す。これ将軍家御疱瘡の時医術を施すの賞なり。即ちこの趣尻付ありと云々。今日北条弥四郎小侍所別当を辞し申さると云々。○廿九日壬子、佐渡守基綱京都より参向す。南都静謐の条々の事これを申し入る。この事内外の計らい、偏に武蔵得業隆円の忠によるの由これを申す。その趣六波羅駿河守(重時)の去る十一日の状に載すと云々。