文暦二年乙未(九月十九日嘉禎元年となる)


◎正月小。○一日乙未、椀飯(相州の御沙汰)。御釼駿河前司義村これを持参す。御弓矢出羽前司家長、御行騰相模式部大夫。○二日丙申、椀飯(武州の御沙汰)。御釼陸奥式部大夫、御調度駿河次郎、御行騰越後太郎。○三日丁酉、椀飯(越州の御沙汰)。御釼駿河前司、御調度加賀守、御行騰城太郎。○五日己亥、将軍家の御方違の事、御沙汰を経らると云々。○九日癸卯、霽。将軍家節分の御方違。越後守の名越亭に入御す。この宿所始めて入御するの間、事ごとに花美を尽くす。○十二日丙午、快霽。将軍家鶴岡八幡宮に御参(御束帯、御車)。佐原新左衛門尉御釼を持ち、摂津左衛門尉御調度を懸く。今夜御方違のために周防前司親実の大倉の家に入御す。これ大将軍王相方の御方違たるなり。春の間十五日に一度渡御あるべきなり。○十五日己酉、五大尊堂の門木作始なり。来月十日堂舎を立てらるべきにより、まずこの沙汰あり。周防前司親実・摂津左衛門尉為光これを奉行す。○廿日甲寅、将軍家御方違のために周防前司親実の大倉の家に入御す。明日五大堂の門を立てらるべきにより、天一方を違えしめ給うと云々。しかるをこれより先、御方違の方角の事に就き、前漏刻博士宣友申す旨あり。よって御出以前、小御所の東面において直にこれを召し決せらる。忠尚・親職・晴賢・文元等渡殿透廊の北縁に候す。宣友申して云く、遊年の方と大将軍王相と各別謂れなしと云々。忠尚等云く、各別の事なり。越州亭は御遊年の方を違えしめ御さんがため、周防前司の家は旧年より御本所として御方を違えられおわんぬと云々。○廿一日乙卯、御願五大堂建立の事、相州・武州度々巡検し、鎌倉中の勝地を撰ばる。去年城太郎の甘縄の地を定めらるといえども、なお相叶わず。頗る思食し煩うのところ、幕府の鬼門の方に相当たりてこの地あり。毛利蔵人大夫入道西阿の領なり。御祈祷相応の所たるにより、これを点ぜられ、即ち地を引かれおわんぬ。よって今日まず総門ばかりこれを建てらる。相州・武州・大膳権大夫以下の数輩相向かわる。伊賀式部入道光西・清判官季氏等奉行たり。○廿六日庚申、今夜御方違のため、周防前司親実の大倉の家に入御す。この所において庚申の御会あり。二首の和歌を講ぜらる。題、竹間の鴬、松に寄せる祝。石山侍従・河内前司光行入道・大夫判官基綱・式部大夫入道光西・東六郎行胤等懐紙を進むと云々。○廿七日辛酉、鎌倉中の僧徒の兵杖を禁断せらると云々。

◎二月大。○三日丙寅、五大尊堂の地において土公祭を始行せらる。陰陽道相替わりて連日奉仕すべきの由と云々。○四日丁卯、五大堂の地において社を崇めらるべきの由、その沙汰あり。唐門の外に勧請し奉るべきの由、兼日思食さるるのところ、その地狭少の間、相州・武州ならびに大膳権大夫・駿河前司等くだんの地に参会し、おのおの評議を加う。門内を卜せらるべきか、また堂の後山を点ぜらるべきか。意見区分。ただし山は堂の地より高き所なり。何様たるべきかなの由、有職ならびに陰陽道に仰せ合わさる。よってこの総社の地のごとき事、所処の例を訪うに、強ちに高下を撰ぶに及ばず。宜しく地形によるべきの由、河内入道(光行)・親職・晴賢等一同にこれを申す。この上は沙汰ありて堂の東の地をもってその所に定むべしと云々。○九日壬申、将軍家、後藤大夫判官基綱の大倉の宅に入御す。御水干・御騎馬なり。陸奥式部大夫・相模式部大夫・前民部少輔・駿河前司・伊東大夫判官・駿河大夫判官等供奉す。五位水干、六位直垂。立烏帽子。上野七郎左衛門尉・同五郎・武田六郎、以上三人甲を着し最末に候す。今夜かの家に御止宿。遊興一に非ず。まず御的。次いで小笠懸。次いで御鞠。次いで御酒宴、管絃。夜に入り和歌御会と云々。相州・武州参り給う。御的。射手。一番、三浦駿河次郎・岡辺左衛門四郎。二番、佐々木八郎左衛門尉・神地四郎。三番、武田六郎・横溝六郎。小笠懸、相模式部大夫・駿河次郎・小山五郎左衛門尉・相摸五郎・近江三郎左衛門尉・佐々木八郎左衛門尉・横溝六郎・宇都宮四郎左衛門尉・武田六郎・上総介太郎。○十日癸酉、天晴れ風静かなり。将軍家基綱の家より五大尊堂の地に渡御す。相州・武州・大膳権大夫・駿河前司・長井左衛門大夫・出羽前司・加賀守以下供奉す。今日御堂を立てらる。親職・晴賢・文元等の朝臣参進し、時刻の事を申す。午の刻に及びその儀あり。大工矢坂次郎大夫なり。引頭四人参上す。事終わり、工等禄を賜る。判官代大夫隆邦・清判官季氏等奉行たり。大工分、馬二疋。一御馬(鹿毛、鞍を置く)、野内太郎兵衛尉・同次郎これを引く。二御馬(黒葦毛)、本間次郎左衛門尉・同四郎。十物十種、絹十疋・染絹十端・綿十両・白布十端・藍摺十段・奥布十端・直垂紺十・帷紺十・色革十枚。引頭分、馬一疋。五物五種、絹五疋・白布五端。直垂紺五・帷紺五・奥布五段。以上人別定。この外、桧皮大工・壁塗・鍛冶等おのおの御馬一疋。馬は両国司ならびに駿河前司・小山下野入道・千葉介等の進むる所、以下皆政所の沙汰なり。○十五日戊寅、御所の南面において涅槃経論義を行わる。僧衆八人、光宝法印・兼盛法印・定親僧都・頼兼僧都・憲清僧都・定清律師・審範已講・定修阿闍梨。晩景事終わり布施あり。左近大夫将監佐房・左近蔵人親光・駿河蔵人等これを取る。○十八日辛巳、霽。弁僧正定豪本坊において一切経を供養す。導師興福寺東南院法印公宴、呪願大蔵卿法印良信なり。将軍家御結縁のために出御す(御輿)。武藤左近将監御釼を役す。相州・武州以下供奉す。

◎三月小。○三日丙申、小雨灑ぐ。鶴岡八幡宮恒例の神事。将軍家御参宮。○五日戊戌、午の刻五大堂の鐘楼を立てらる。相州・武州参らる。○九日壬寅、晴。亥の刻大地震。○十一日甲辰、天変地震の御祈等を始行すと云々。○十三日丙午、巳の刻、地震小動。○十六日己酉、卯の刻大地震。今日天変地妖等の事により、御祈祷・徳政等あるべきの由、武州の御亭においてその沙汰あり。師員朝臣奉行たりと云々。○十八日辛亥、晴。相州・武州、御所に参らる。五大堂供養の日時定あり。陰陽師等参進し、おのおの定め申して云く、四月十一日上吉、同十八日下吉、五月五日上吉と云々。四月十一日はたとい土木の成功を終えるといえども、荘厳出来すべからず。五月は毎事忌み来たるか。四月の下吉と五月の上吉と勝劣何様たるべきかなの由、群議あり。親職申して云く、五月堂供養の例繁多。五月の上吉憚りあるべからずと云々。晴賢申して云く、五月これを憚り来たるところは、元服・着袴・移徙・嫁娶等の事か。斎月たるにより、仏事においては先例憚らず。かつがつ正・五・九月修善すべきの由、経文に載す。所謂、法成寺釈迦堂・総持院、五月に精舎を供養するなり。宇治一切経会、五月にこれを始めらる。五月の上吉の日を用いらるべしと云々。忠尚・宣俊・資俊・文元等これに同ず。よって治定す。両国司これを承り定め、退出せらると云々。○廿五日戊午、武州の御亭において五大堂供養の日時の事、重ねてその沙汰あり。これ五月五日供養を遂ぐべきの由、先日定められおわんぬ。くだんの日は鶴岡神事の式日なり。何様たるべきかなの由と云々。また陰陽師の輩を召し仰せ合わせらる。忠尚以下申して云く、神仏事、一日の内に行わるるの例これ多しといえども、かれこれともに大営たり。指し合うべくんば、延引せらるべきかと云々。武州仰せて云く、然らば何の日を用いらるべきかなと云々。六月廿九日最吉の由。おのおの一同にこれを申す。よって廷尉基綱に付し、この由を御所に申さると云々。○廿八日辛酉、武州の御亭において、五大堂供養の事、陰陽道勘文を召す。昨日その沙汰ありといえども、御所の御衰日たるにより、今日に及ぶと云々。

◎四月大。○一日癸亥、晴。亥の刻、京都の飛脚参着す。殿下去る二月廿日以後、御不例日を追って増気の間、摂録〔摂〓【せつろく】〕大殿御還着の由これを申す。○二日甲子、晴。子の刻、京都の飛脚重ねて到来す。前摂政殿、去月廿七日御絶入、同廿八日巳の刻薨ずと云々。これ将軍家の御舎兄なり。○三日乙丑、将軍家御軽服の上、摂政殿の薨御たるにより政務三ヶ日を閣かると云々。○六日戊辰、隱岐四郎左衛門尉行久、使節として上洛す。前殿下の御事によりてなり。○七日己巳、申の刻、御所寝殿の棟上の瓦の傍らに烏巣を造る。御占を行わる。五時、卦三光に遇い、年上伝送大裳。御吉事と云々。○九日辛未、怪たるにより御祈を行わると云々。○十一日癸酉、今日馬場において周防前司の奉行として、烏の巣の事、その沙汰を経らる。○十三日乙亥、午の刻地震。○廿八日庚寅、未の刻地震。○廿九日辛卯、未の刻地震。○卅日壬辰、巳の刻地震。

◎五月小。○一日癸巳、巳の刻地震。○三日乙未、午の刻地震。○四日丙申、戌の刻地震。隱岐四郎左衛門尉京都より参着す。○五日丁酉、午の刻地震。今日鶴岡八幡宮の神事なり。将軍家御参なし。武州奉幣の御使として参り給う。○七日己亥、午の刻地震。○八日庚子、天変地妖の事により、御祈祷・徳政等を行わるべきの由、内々にその沙汰あり。連日地震の事、未だこの例あらざるの由、古老の談ずる所なり。○十三日乙巳、京中数ケ所に空地あるの由、聞食し及ぶの間、関東御家人の給分においては、使者をもって巡検を加え、今年中に屋舎を構うべきの由、面々に相催すべきの旨、今日六波羅に仰せらる。もし懈怠致さば、他人に充て給うべしと云々。これかつは洛陽荒廃に似、かつは強盗警固の煩いあるの由、御沙汰によりかくの如し。○十五日丁未、土屋左衛門尉平宗光卒す(年五十二)。○十六日戌申、石清水八幡宮別当法印幸清申す。宮寺領山城国今移・薪御園両所において守護人を置かるべし。これ悪党等男山の境内を憚らず、或いは猪鹿を射、或いは強盗を企て、禁ぜざるべからずと云々。譜第の寄に就き、守護せしむべきの旨、今日下総守源保茂に仰せ付けらると云々。○廿二日甲寅、上野介藤原朝光評定衆に加うと云々。○廿三日乙卯、石清水八幡宮寺と興福寺と確執あり。喧嘩等に及ぶの間、計沙汰すべきの旨、院宣を下さるるの由、六波羅よりこれを馳せ申さる。これ薪・大住両庄用水相論の故なりと云々。よってその沙汰を経らる。御使を差し遣し、実検を遂げ、左右に就き、議定あるべきの趣、今日仰せ遣わさるる所なり。○廿七日己未、故竹御所一廻御追善のおおんため、武州仏像を造立せらる。仏師肥後法橋と云々。下山次郎入道・三沢藤次入道等奉行たり。

◎六月大。○十日辛未、将軍家の御祈百日泰山府君祭始行。忠尚朝臣これを奉仕す。○十六日丁丑、地震御祈等始行。○十九日庚辰、五大堂の洪鐘を鋳らる。しかるを今日これを鋳損う。奉行人周防前司、鋳物師を勘発せんと欲するのところ、陳じ申して云く、銅の不足により、かくの如し。銅を加えらるべきかと云々。○廿一日壬午、洪鐘鋳改めらるべきの由、御所においてその沙汰あり。周防前司これを奉行す。来る廿九日御堂供養以前、早旦この儀あるべしと云々。○廿八日己丑、今夜、新造の精舎において解謝祭等を行わる。大鎮(親職朝臣)、大土公(晴賢朝臣)、大将軍(文元朝臣)、王相(広相朝臣)。また供養の間、魔障を避けんがため、南方高山祭を行わる。名越の山上において、弁法印良算これを奉仕す。毛利左近蔵人親光御使たり。○廿九日庚寅、朝間雨降る。巳以後霽に属す。寅・卯の両時、新造御堂の安鎮を行わる。弁僧正(定豪)これを修す。また洪鐘を鋳直さる(高五尺二寸、径四尺)。先日銅銭三百貫文をもってこれを鋳損う。今度卅余貫。成功殊勝と云々。東大寺の洪鐘、三ヶ度これを鋳直さる。法勝寺の鐘、承暦二年十二月二日これを鋳損い、後日改めらると云々。辰の刻鐘を懸く。同時に五大明王像を堂中に安置し奉る(不動・降三世・軍荼利・大威徳・金剛夜叉なり)。巳の二点、明王院(五大尊堂)供養あるべきにより、将軍家御参堂のために出御(御束帯。御釼・笏)。西廊の西向において反閇あり。忠尚朝臣奉仕す。同じ東方に出ず。給禄(蘇芳生衣一領)。左近大夫将監佐房(布衣)これを取り、忠尚の左肩に懸く。その後南門より御出。小町大路を北行し、塔辻を東行す。御出の行列、先陣の随兵、上総介常秀・駿河前司義村・小山五郎左衛門尉長村・筑後図書助時家・城太郎義景・宇都宮四郎左衛門尉頼業・足利五郎長氏・越後太郎光時・陸奥式部大夫政村・相模六郎時定。御車(路次の間、御剣役の人なし)。上総介太郎・大須賀次郎左衛門尉・小野沢次郎・宇田左衛門尉・伊賀六郎左衛門尉・佐野三郎左衛門尉・大河戸太郎兵衛尉・江戸八郎太郎・本間次郎左衛門尉・安保三郎兵衛尉・平岡左衛門尉、已上直垂帯釼、御車の左右を列歩す。御調度懸、加地八郎左衛門尉信朝。御後の五位・六位(布衣下括、六位弓矢を帯す)。前民部少輔・相模式部大夫、寺門内御剣を役す。北条弥四郎経時・駿河次郎泰村・陸奥太郎実時・左衛門大夫泰秀・左近大夫将監佐房・修理亮泰綱・大膳権大夫師員・木工権頭仲能・加賀前司康俊・出羽前司家長・駿河四郎左衛門尉家村・佐原新左衛門尉胤家・三浦又太郎左衛門尉氏村・関左衛門尉政泰・宇佐見藤内左衛門尉祐泰・下河辺左衛門尉行光・薬師寺左衛門尉朝村・近江四郎左衛門尉氏信・河津八郎左衛門尉尚景・摂津左衛門尉為光・笠間左衛門尉時朝・信濃次郎左衛門尉行泰・隠岐三郎左衛門尉行義・内藤七郎左衛門尉盛継・武藤左衛門尉景頼・弥次郎左衛門尉親盛・和泉六郎左衛門尉景村・長掃部左衛門尉・弥善太左衛門尉康義・稗垂〔押垂〕左衛門尉時基・大曽祢兵衛尉長泰。後陣随兵、河越掃部助泰重・梶原右衛門尉景俊・氏家太郎公信・壱岐三郎時晴・後藤次郎左衛門尉基親・伊東三郎左衛門尉祐綱・佐竹八郎助義・武田六郎信長。検非違使、駿河大夫判官光村・後藤大夫判官基綱。堂中に入御す。両国司参り儲けらる。午の二点、供養の儀あり。曼荼羅供なり。執行帥法橋快深、会場の事を奉行す。願文大蔵卿為長これを草す。清書内大臣(実氏公)。酉の刻、事終わりて還御。大阿闍梨(当寺別当)弁僧正定豪。職衆廿二口。(別当定豪これを請ず)鳥羽法印光宝・助法印厳海(当寺供僧)・大夫法印忠遍・帥僧都定基(同供僧)・左大臣法印兼盛(供僧)・宮内卿僧都承快(供僧)・大納言法印良全・大納言僧都定親(鶴岳供僧)・加賀律師定清(当寺供僧)・宰相律師実俊・宰相律師円親・大蔵卿律師定雅(鶴岳供僧)・三位阿闍梨範乗・少将阿闍梨実果・大納言阿闍梨隆弁・越後阿闍梨定憲・宰相阿闍梨長全・宰相内供定宗・因幡阿闍梨定弁・兵部卿阿闍梨親遍・少将言阿闍梨定瑜・大夫律師良賢。布施、導師分、被物卅重(色々)・裹物一(染絹十五端を納む)・白綾卅疋・染綾卅疋・計帳卅疋・顕文紗卅段・丹後絹卅疋・巻絹卅疋・染付卅巻・唐綾卅端・筋計帳卅疋・紫村濃卅端・紫卅段・綾地卅段・紺村濃卅段・帖絹卅疋・絹浅黄卅段・紺染絹卅疋・白布卅段・紺布卅段・藍摺卅段・色革卅枚・香炉箱一・居箱一・水精の念珠(銀の折敷に在り)・横皮(銀の折敷に在り)・法服一具・香染衣一具・上童装束一具・宿衣一領。加布施、砂金百両(銀の折敷に在り)・野剣一腰(銀長輻輪。錦の袋に在り)。この外供米廿石・馬十疋。一疋、佐原太郎兵衛尉・多気次郎兵衛尉(これを引く)。一疋、長尾平内左衛門尉・同三郎兵衛尉。一疋、信濃三郎左衛門尉・隠岐五郎左衛門尉。一疋、和泉次郎左衛門尉・同五郎左衛門尉。一疋、小野寺小次郎左衛門尉・同四郎左衛門尉。一疋、長三郎左衛門尉・同四郎左衛門尉。一疋、豊田太郎兵衛尉・同次郎兵衛尉。一疋、豊前太郎左衛門尉・布施左衛門太郎。一疋、山内藤内・同左衛門太郎。一疋、中沢次郎兵衛尉・同十郎。職衆分(口別)、被物十重(色々)・裹物一・白綾十端・色々絹十段・巻絹十疋・帖絹十疋・染付十巻・染絹十段・白布十段・紺布十段・藍摺十段・色革十枚・供米五石・馬三疋(一疋鞍を置く)。○卅日辛卯、来月閏月たるにより、今夜六月秡を行わるべきや否やの事、藤内判官定員の奉行として有職ならびに陰陽道の輩に尋問せらる。河内入道等申して云く、義解の文のごとくんば、閏月に行うべき事分明なり。和歌に云く、後のミソカヲ三十日トハセヨ、てえり。その上、治承四年・建久八年・建保四年、皆閏月に行わると云々。諸人これに一同す。資俊申して云く、両月行うの例これを存すと云々。然れども多分の儀につき行われずと云々。

◎閏六月大。○三日甲午、上野入道評定衆を辞し申す。これ短慮迷い易く、是非を弁えざるの間、意見を献ぜんと欲するにところなしと云々。武州仰せられて云く、五月に初参し、今月辞退す。物〓【ぶっそう】の事かと云々。上州重ねて申して云く、初参の日、すなわちこれを辞し申すべしといえども、眉目を子葉に貽さんがため、憖にその号を懸け、一両月に渉りおわんぬ。今においては参勤し難しと云々。この上は許容あり。○十五日丙午、明日立秋の節に入る。明王院御堂の瓦少々未だ葺かれざるの間、御方違のために、越後守の名越亭に入御あるべき由、周防前司親実・伊賀式部入道光西・摂津左衛門尉為光等の奉行として、その沙汰あり。沙汰せらるるのところ、儀ありて俄にこれを止めらる。冬季に入り、御方違あるべしと云々。○廿二日癸丑、午の刻地震。○廿三日甲寅、将軍家馬場殿に渡御し、射芸を覧る。その次でをもって、大膳権大夫師員の屋形に入御す。すなわち還御すと云々。御引出物等を献ずと云々。○廿四日乙卯、来八月の鶴岡放生会舞楽のために、右近将監多好節を召さる。ただし公役指し合わざれば参向すべし。もしまた障りあらば、多好継を差すべきの由、今日京都に仰せ遣わさると云々。○廿八日己未、今日起請の失の篇目を定めらる。所謂、鼻血出る事、起請文を書くの後病の事(ただし本の病の者を除く)、鵄・烏の失懸かる事、鼠のために衣裳を食わるる事、身中より下血せしむる事(ただし楊枝を用いる時ならびに月水および痔病の者を除く)、重軽服の事、父子罪科出来の事、飲食時に咽ぶ事(ただし背を打たるるの程失の者と定むべし)、乗用の馬斃るる事、以上九ヶ条、これ政道において。私なきをもって先となす。しかるを事を論ずるに疑いあり。是非を決するに端なし。故に神道の冥慮を仰ぎ、犯否を糺さるべしと云々。信濃左衛門尉行泰・図書允清時・清判官清原季氏等奉行としてこれを申沙汰すと云々。

◎七月小。○二日癸亥、所職所帯ならびに堺相論の事、非拠たらば、所領を召さるべし。所領なくば、罪科に処せらるべきの旨、両方請文を召し取るの後、糺明すべきの由定めらる。かつがつ六波羅に仰せらると云々。○五日丙寅、永福寺総門上棟の間、将軍家御出(御車)。相州・武州供奉し給う。この門、去る寛喜三年十月廿五日炎上す。その後新造の時、丙日を用いらるるの条、頗るその難あるの由、嫌い申すの輩ありといえども、遂げられおわんぬ。黄昏に及び還御す。○七日戊辰、近江入道虚仮賜る所の承久宇治河先登の賞、神社等に付さるるの間、今日その替沙汰あり。御下文を成さる。殊なる勲功たるにより、その詞を載せらると云々。将軍家政所下す、尾張国長岡庄住人。補任する地頭職の事。前近江守信綱法師。右の人、承久兵乱宇治河鋤〓【】の勧賞豊浦庄の替わりに、かの職たるべきの状、仰する所くだんの如し。以って下す。文暦二年七月七日 案主左近将曹菅原・令左衛門少尉藤原・知家事内舎人清原・別当相模守平朝臣・武蔵守平朝臣。○八日己巳、資俊・晴賢等、天変の事に就き相論し、訴陳に及ぶ。その状、今日外記大夫倫重御所に読み申す。相州・武州候せらると云々。○十日辛未、雨降る。夜に入り雷鳴甚雨。鎌倉中洪水。人屋の流出、山岳の頽毀、勝て計うべからず。○十一日壬申、将軍家小御所の端に出御し、世上の御雑談に及ぶ。陸奥式部大夫・木工権頭仲能・周防前司親実・小野沢蔵人・藤内判官定員・隠岐五郎左衛門尉行賢・施楽院使良基・大蔵権大輔晴賢・大監物文元・掃部大夫資俊等祗候す。仰せて曰く、おのおのの心中面白くまた心に染むるの事、およそ注し申すべし、てえり。面々妄念これを書き進む。定員これを読み申す。雅意の趣皆同じくはなし。興あり感あり。また頷を解く事多く相交じると云々。○十八日己卯、霽。故御台所周〓【しゅうけつ】御仏事なり。未の刻、新阿弥陀堂において曼荼羅供を行わる。大阿闍梨助法印厳海。相州・武州以下の人々詣で給う。また御旧跡(故二位殿の御亭)において同じく御仏事を修せらる。その外の人々、方々において多く御追善を励ますと云々。この御仏事の日次の事、日来沙汰あり。広く陰陽道に尋ね下さるるのところ、忠尚朝臣以下の申状区分。吉日なきによってなり。しかるを勘解由次官知家今日たるべきの由計らい申す所なり。陰陽道の輩においては、なおもって傾き申すといえども、遂にこれを用いられおわんぬ。○廿三日甲申、六波羅に仰せらる条々の事、先ず京都刀傷殺害人の事、武士たるの輩相交じ〔らざ〕るにおいては、使庁の沙汰たるべし。犯過断罪の事、夜討強盗の張本として所犯遁るる所なくば、断罪せらるべし。枝葉の輩は関東に召し進め、夷島に遣わさるべきなり。次いで同じく大番の事、次第を定めらるるのところ、替わりの番衆遅々の間、前の番衆の勤仕、一両月を超ゆ。遅参せしむる輩は二ヶ月勤め入るべきなり、てえり。また都鄙の間、急事あるの時、相互に立つ所の飛脚、早速のため、路次往返の馬を取り騎用するの条、人の愁う所なり。向後乗馬以下の事を駅々に構うべきの由、今日これを定めらると云々。○廿四日乙酉、念仏者と称し、黒衣を着するの輩、近年都鄙に充満し、所部を横行す。宣旨度々に及ぶといえども、未だ対治せられず。重ねて宣下せらるべきの由、京都に申さるべしと云々。また石清水神輿の事、その沙汰あり。これ八幡宮寺と興福寺と確執する事。御使を遣わすべきの由、去る五月両方に仰せらるるのところ、その左右を待ち奉らず、同六月四日、南都の衆徒薪庄に押し寄せ、在家六十余宇を焼き払いおわんぬ。宮寺勅裁を仰ぐべきのところ、同十九日、俄に神輿を宿院に渡し奉るの間、子細を尋問せられんがため、季継宿祢を遣わさるといえども、問答に及ばず。剰え神人等史生為末を凌礫せしめおわんぬ。然る後、解状を捧げ条々勅許に預かると云々。よって宮寺の嗷訴かたがた然るべからざるの由、今日沙汰あり。別当成清法印に仰せ遣わされ、しかしながら因幡国を寄進せらるるにより、神輿の入洛を留め奉りおわんぬ。無道の濫訴に就き、非分の朝恩に浴せば、諸山諸寺の濫行断絶すべからざるにより、世のため人のため、始終不快の事、関東より、争か計り申されざらんや。自今以後、もしたやすく神輿を動かし奉らば、別当職を改め補せらるべきの由、奏問せらるべし。余所の衆徒においては、貫首の命ずる所に背き、ややもすれば蜂起の事出来するか。当宮の神人に至りては、別当の免許に非ざれば、何ぞ無道の濫行を致すか。兼ねてもって存知すべきの由と云々。○廿七日戊子、晴。竹御所の姫君、相州の御亭において御除服の儀あり。今日六波羅の飛脚参着す。これ近江入道虚仮子息次郎左衛門尉高信、日吉神人を殺害するの間、山徒日ごろ欝訴に及ぶといえども、聖断遅々と称し、去る廿三日、日吉三社の神輿を振り奉る。勅旨を承るにより、勇士等を近衛河原口に差し遣わし、留め奉らんと欲するの間、武士・衆徒互いに疵を被るの者これ多しと云々。その濫觴を尋ねらるるに、近江国高島郡散在の駕輿丁神人六十六人と云々。しかるを山門の計らいとして、かの神人の内七人を改め、公役勤仕の百姓をもってその替わりとなす。これにより、地頭虚仮新儀を止め、復旧せらるべきの由、奉行人親〔観〕厳律師に問答す。左右未だ落居せざる以前、急事ありて関東に参りおわんぬ。しかるを高信先ず勢多橋の行事として行き向かい所役を催促するの時、新神人等これを対捍せんがため、兼ねて宮仕法師を住宅に語らい置き、高信の使者に拏獲し、喧嘩に及ぶと云々。○廿九日庚寅、去る廿三日、台嶺の衆徒、三社(十禅師・客人・八王子)の神輿を花洛に動かし奉る。これ近江国高島郡田中郷の地頭佐々木次郎左衛門尉高信の代官と日吉社人等と闘乱を起こすの故なり。しかるを神輿入洛の時、例に任せ官軍相禦ぐの間、宮人疵を被り、死悶に至るの由、これを訴え申すに就き、かの刻先陣の輩の中、右衛門尉遠政・兵衛尉遠信等流刑せらるべきの由、定めらるるの上、高信を鎮西に配流すべきの由、六波羅に仰せ遣わさるる所なり。神輿の入洛先規ありといえども、今度の次第においては、殆んど上古の狼藉を超ゆ。よって張本を召し出だされ、後昆を誡められんがため、殊なる重科に非ずといえども、先ず御家人等においては、山徒の欝陶に任せ、所当の咎に処せらると云々。その篇条々の沙汰あり。奏聞のため、今日御教書を二条中納言(忠高卿)に遣わさる。田中郷地頭高信代官と住民と喧嘩する事、先日重時・時盛事の由を注し下すの間、両方を決せられ、御沙汰あるべきの由、貫首に言上しおわんぬ。更にこれ高信を優恕するの儀に非ず。高信罪科候はば、争か炳誡を加えざらんや。神人の訴訟連々のところ、是非を糺明せざれば、傍輩勝に乗じ、濫訴絶えるべからざるにより、その趣を申さしむるばかりなり(以上)。次いで衆徒においては、且つは聖断を仰ぎ、且つは関東の左右を相待つべきのところ、忽ちに神輿を動かし、天聴を驚かせ奉るの条、理不尽の悪行、不可説の次第に候。張本に至っては、早くその身以下を召し出さるべきの趣、これを載せらると云々。

◎八月大。○十四日甲辰、晴陰定らず。卯の刻、将軍家鶴岡に御参。浄衣を着し給う。御台所御周剃の後御参宮始なり。明日の放生会御参をもって通用せらるべし。重日たるにより、先ずこの儀に及ぶと云々。○十五日乙巳、霽。鶴岡放生会。将軍家御出。○十六日丙午、晴。馬場の儀例の如し。御参宮三ヶ日相続く者なり。昨今供奉の官人、光村・定員等なり。○十八日戊申、舞人多好氏鎌倉に在るのところ、帰洛せしむべきの旨、殿下より申さるるの間、差し進めらるる所なり。すなわち将軍家御自筆を染め、御請文を申さしめ給う。また御馬一疋(白鹿毛)好氏に賜う。両三年に一度、放生会の時参仕すべきの由、木工権頭をもって好氏に仰せ含めらると云々。○廿一日辛亥、相州・武州御所に参らる。おのおの御厩侍の上東蔀の間に着せしめ給う。評定衆参上す。師員・家長・康俊南座(東上)に候す。西阿・義村・行西北方に候す。将軍簾中に御坐す。加藤七郎左衛門尉景義と兄加藤判官景朝と伊豆国狩野庄内牧郷地頭職に就き相論する事、一決を遂ぐ。兄南方の末席に召され、舎弟同北の対座に在り。図書充清時の奉行として子細を問わる。景義訴え申して云く、当郷は伯父故伊勢前司光員の所領なり。承久三年五月卅日亡父景廉これを拝領す。ただし仰せにより暫く叔父覚蓮をして領知せしむる者なり。かの一期の後は、景廉の契状に任せ景義領掌すべきのところ、景朝義絶の身を顧みず、ほしいままに押領を企つ。早く糺し返さるべし、てえり。景朝陳じ申して云く、当郷は二位家の御時、景朝をして相伝せしむるの趣、兼日の御書に預かるの上、知行何事あらんや。亡父のために義絶せらるる事、景義の狂誕なり。過言の科に処せらるべし、てえり。評定を凝らさる。景義申す所子細あるの旨、衆議一揆せしむ。しかるを景朝二位家の御遺書を進覧す。狩野牧においては、覚蓮房の後、景朝に賜うべきの由、分明の旨に任せ、景朝に付けらるる所なり。二位家の御時の御教書、棄て置かるるの条、その恐れあるの由、泰時朝臣申請するにより、景朝を補任せらるるの旨、すなわち御下文に載せらると云々。

◎九月小。○一日辛酉、霽。子の刻、右大将家の法華堂前の湯屋失火す。風頻りに吹く。法華堂頗るこの災いを免れ難きのところ、諏方兵衛尉盛重一人最前に馳せ向かい、中間の民屋数十宇を壊たしむるの間、火止まりおわんぬ。○二日壬戌、去る夜、法華堂において火災なきの条、偏に諏方の高名に在るの由、武州感歎せしめ給う。よって御恩に浴すと云々。○十日庚午、長尾三郎兵衛尉光景、度々の勲功を致すといえども、未だ恩賞に預からざる事、駿河前司義村ならびに同次郎泰村、恩沢奉行後藤大夫判官基綱に属し、頻りにこれを執し申す。よって沙汰あり。勧賞あるべきの旨、基綱に仰せ付けらると云々。しかるを鎮西に強盗人あり。かの所領召し放たるれば賜うべきの旨、義村上覧の状を注し、これを申す。未断の闕所を望むべからざるの趣、近年式条に載せらるといえども、評定衆として今この儀に及ぶ。人もって甘心せずと云々。かの光景、建暦三年義盛叛逆の時、十三歳の小童たりといえども、北御門の搦手に向かい防戦に励む。矢多く腹巻に射立てらる。また承久の兵乱に、泰村に相具し、宇治橋の手において軍忠を竭すと云々。○廿四日甲申、霽。戌の刻、資俊御所に参り、申して云く、今夜五更坤星、南北三尺ばかり頻りに逆行し、円坐のごとく旋る。希代の異たりと云々。よって将軍家東面の渡廊に出御し、忠尚・親職等の朝臣を召し、窺い定むべきの由仰せ下さる。暁更に及び、彼等申して云く、これを窺うといえども、一切その変なし。ただし今夜風吹くの間、諸星の光揺らぐなりと云々。○廿九日己丑、子の刻地震。

◎十月大。○二日辛卯、晴。相州・武州御所に参る。小侍所に候せしめ給う。去月廿四日、五更乾星動く事、司天の申す所、一准せざるの間、日来その沙汰あり。今日忠尚・親職以下を召し聚め、これを尋問せらる。資俊申して云く、二三尺ばかり。等円坐のごとし。東西南北に動揺すと云々。忠尚以下六人、全く動かざるの旨これを申す。資俊頗る雌伏の気あり。よって怠状を召さるべきの旨、おのおのこれを訴え申すといえども、関東において例なきの上、申状の趣、その沙汰あたわざるの由、武州申さしめ給うと云々。○八日丁酉、改元詔書到来す。去月十九日、文暦二年を改め、嘉禎元年となると云々。○十四日癸卯、政所において改元の吉書始の儀ありと云々。○十七日丙午、陰。京都の使者到来す。去る八日将軍家、陸奥出羽按察使に任ぜしめ御すの由これを申す。○十九日戊申、申の刻雨降る。雷数声。○廿八日丁巳、去月廿日、御禊行幸無為に遂行せらる。その夜より主上疱瘡の御不予。およそこの事洛陽に流布す。諸人免れずと云々。

◎十一月小。○十四日癸酉、京都の使者参着す。去月廿八日、将軍家の御姫君(御他腹、御年十五と云々)御卒去と云々。○十五日甲戌、将軍家御除服。南門より出御す。御秡の儀あり。晴賢これを奉仕す。○十八日丁丑、辰の刻、将軍家御不例。両国司以下群参すと云々。良基朝臣祗候す。○十九日戊寅、今暁、御不例の御祈祷を始行す。泰山君祭、忠尚。七曜供、珍誉法印。この外、鬼気・天曹地府等の祭数座に及ぶと云々。○廿六日乙酉、京都の使者参る。去る十九日、将軍家従二位に叙し御すと云々。○廿八日丁亥、去る十九日大甞会。風雨の難なし。その間の事、京都より記録を奉らる。今日到着し、大膳権大夫、御前においてこれを読み申す。

◎十二月大。○十一日己亥、宇佐宮神領の事、十一ヶ所沒収地となる。その内四ヶ所はこれを返付せらる。七ヶ所においては、その次いでなきにより、未だ返付せらるるに及ばず。しかるを今日沙汰あり。たとい廿ヶ年を過ぐといえども、自然便宜出来の時は式条に拘わらず、御裁定あるべきの由と云々。○十五日癸卯、月蝕。○十八日丙午、将軍家御不例の事、御疱瘡出現の気あるの由、良基朝臣これを申す。今夜また御祈祷等を始行す。子の刻に及び、平左衛門尉盛綱、武州の御使として御所に参り申して云く、毎日御招魂祭を修せらるべきの由と云々。よって先ず七ヶ夜奉仕すべきの旨、国継に仰せらると云々。○廿日戊申、御不例の御祈として、御所の南庭において、七座の泰山府君祭を行わる。忠尚・親職・晴賢・資俊・広資・国継・泰宗等これを奉仕す。黄昏に及び、四角四境祭を行わる。御所艮の角(陰陽大允晴茂)、巽の角(図書助晴秀)坤の角(右京権亮経昌)、乾の角(雅楽助清貞)、小袋坂(雅楽大夫泰房)、小壺(近江大夫親貞)、六浦(陰陽少允以平)、固瀬河(縫殿助文方)。○廿一日己酉、御祈等始行す。愛染王護摩、忍辱山僧正。十一面護摩、信濃法印道禅。不動供、摂津法眼行重。七曜供、助法印珍誉。天曹地府祭(文元朝臣)。如法呪咀ならびに鬼気祭(親職)。土公祭(大膳権亮道氏)。○廿二日庚戌、また御祈等を行わる。仏眼、鳥羽法印光宝。金輪、内大臣僧都定親。金剛童子護摩、丹後僧都頼暁。霊気道断祭、陰陽助忠尚。雷神祭、相模権守俊定等これを奉仕す。○廿三日辛亥、尊勝護摩一七ヶ日これを始行す。○廿四日壬子、重ねて御祈として、所処の本宮において大般若経を転読せしめ、御神楽を修すべきの由、仰せ下され、雑掌人に付けらる。よって面々使いを遣わす。これを勤仕すべきによってなり。伊勢内外宮(相州の御沙汰)、石清水八幡宮(武州の御沙汰)、賀茂社(大炊助入道の沙汰)、春日社(長井判官代)、日吉社(駿河入道)、祇園社(陸奥掃部助)、大原野社(武州の御沙汰)、吉田社(毛利入道)、北野社(武州の御沙汰)、若宮(武州)、熱田社(出羽左衛門尉)、熊野社(正月十五日以後この御祈を始めらるべし)、本宮(佐原三郎左衛門尉)・新宮(備中左近大夫)・那智(湯浅次郎入道)。この外、尊星王護摩、宰相律師円親。不動護摩、荘厳房律師行勇。炎魔天供、宮内卿律師征審。○廿六日甲寅、晴。今暁、御所の南庭において、如法泰山府君祭を行わる。大舎人権助国継これを奉仕す。祭物を下さるるの上、御甲胄・御弓矢・御双紙箱。御馬(鞍を置く)、これら祭庭に置かる。甲胄等はこれを焼き上ぐと云々。今日いささか御膳を聞食す。良基朝臣の高名の由、武州殊に感仰せらる。かつがつ禄物(御釼と云々)に及ぶ。今夕御祈を始行す。十一面護摩、鳥羽法印。大白祭、法眼承澄。北斗護摩、法印明弁。御当年星供、法橋珍誉等なり。○廿七日乙卯、重ねて御祈として、鶴岡八幡宮において仁王百講を行わる。また相州・武州別して申請せらるるにより、御祭等あるべし。属星祭(忠尚奉仕すべし。武州の御沙汰)、天地災変祭(宣賢奉仕すべし。相州の御沙汰)、次いで霊所祭を行わる。由比浦(大膳亮資俊)、金洗沢(陰陽権大允晴茂)、固瀬河(主計大夫広資)、六浦(前右京亮経昌)、〓河【いたちがわ】(相州権守俊定)、杜戸(雅楽大夫泰房)、江島(備中大夫重氏)。今夕大仏師康定(康運の弟子)に仰せ、仏像を造り始め奉る。明後日(廿九日)造畢し奉るべきの由と云々。千体薬師像一尺六寸。羅〓星【らごしょう】(忿怒の形相。青牛に乗る。左右の手に日月を捧ぐ)。計都星(忿怒の相。龍に乗る。左手に日を捧げ、右手に月を持つ)。御本命星薬師像。夜に入り計都星祭を修せらる(文元朝臣これを奉仕す)。○廿八日丙辰、相州・武州申請せらるる御祭、忠尚・宣賢等今日これを始行す。また三万六千神祭を修せらる。親職これを奉仕す。○廿九日丁巳、雨降る。酉の刻、六波羅の飛脚参着す。申して云く、廿四日辰の一点、南都の衆徒、春日社の神木を捧げ奉り、木津河の辺に発向するの間、在京の勇士等勅定により禦ぎ留め奉らんがため、悉くもって馳せ向かう。これ八幡神人と春日神人と闘諍するの刻、当社の神人多くもって疵を被るの間、訴え申さんがためなり。執柄家ならびに藤氏の公卿皆もって門を閇すと云々。すなわち武州御所に参り給い、評定衆参進す。丑の刻に至るまで、条々の沙汰を経らる。この事公家の重事たり。御使を差し進め、沙汰あるべきの由、議定しおわるの後、飛脚帰洛す。○卅日戊午、仏師康定去る夜造畢し奉る尊形、これ千体薬師・禄存星・羅計二星等なり。よって今日早旦、卿法印良信の本坊に渡し奉る。すなわち導師として開眼供養の儀を展ぶ。藤内判官定員かの坊に行き向かいこれを奉行す。両国司渡御。巻絹十疋・南庭一をもって布施物に充てらると云々。