建永二年丁卯。十月廿五日承元元年となる。


◎正月大。○三日己卯、晴。将軍家、鶴岳八幡宮に詣でしめ給う。但し廻廊において御遥拝。神馬一疋を奉らる。○五日辛亥、将軍家、従四位上に叙せしめ給うと云々。○九日乙酉、将軍家御台所(御車。女房出車一両)鶴岳宮に御参。上宮において法花経供養あり。導師別当法橋定暁。供僧等群参す。○十八日甲午、将軍家二所御精進始め。潮に浴し給わんがため御浜出なり。○廿二日丙申、晴。卯の尅、将軍家二所御進発。相州・武州・大膳大夫・足達九郎右衛門尉已下扈従す。○廿七日辛丑、晴。申の尅、二所より還御。

◎二月小。○十一日戊午、鶴岳八幡宮の神人兄部清太国次の座衆上総国姉前社住人兼祐、当社神人に補せらるるなり。神威を募り、党を結んで群をなし、寄せ沙汰ならびに無道の濫行を好むべからざるの由仰せ含めらると云々。図書允清定これを奉行す。○廿日丁卯、霽。時房朝臣、去月十四日武蔵守に任ずるの間、国務の事、故武蔵守義信入道の例に任せ、沙汰せらるべきの旨仰せ下さると云々。

◎三月大。○一日丙子、桜梅等の樹、多く北の御壺に植えらる。永福寺より引き移さるるところなり。○三日戊寅、北の御壺において鶏闘会あり。時房朝臣・親広・朝光・義盛・遠元・景盛・常秀・常盛・義村・宗政等その衆たりと云々。○十日乙酉、長沼五郎宗政、伯楽の事を奉行すべきの旨仰せ付けらると云々。○廿日壬辰、武蔵国荒野等開発せしむべきの由、地頭等に相触るべきの趣、武州に仰せらると云々。広元朝臣これを奉行すと云々。

◎四月大。○十三日戊午、戌の尅、将軍家御違例。○十六日辛酉、御不例の事。頗る不快の間、相州の御亭において御祈を行わる。鶴岳宮の供僧等を^し、一日中、大般若経一部を転読せらる。○廿日乙丑、快霽。将軍家の御不例、復本せしめ給うの間、御沐浴あり。

◎五月小。○五日庚辰、雨降る。鶴岳宮祭。将軍家御参宮。

◎六月大。○二日丙午、晴。天野民部入道蓮景(俗名遠景)款状を捧ぐ。先ず相州に進る。これ恩沢所望なり。始め治承四年八月山木合戦より以降、度々の勲功を計らい、十一箇条の述懐を載す。大官令これを執り申す。○十六日庚申、陰。涼気例年に似ず。頗る三四月のごとし。世上の貴賎、多くもって病悩す。○廿二日丙寅、霽。坊門亜相(信清卿)の使者参着す。仁和寺御室の令旨を進めらるるところなり。これ紀伊国土民等、高野山に乱入し、狩猟を企て、寺領を押妨す。和泉・紀伊国の守護代、専らその張本たり。関東の御沙汰として狼籍を止めらるべきの趣、寺門愁訴あるの間、御室、件の金剛峯寺所司等の状をもって坊門に仰せ合わせらる。よってまたその旨を伝え申さると云々。○廿四日戊辰、晴。御室の仰せにつき、坊門亜相執り申さるる高野山愁訴する紀伊国土民狼籍の事、御所においてその沙汰あり。和泉・紀伊両国守護は佐原十郎左衛門尉義連の職なり。義連卒去の後、未だその替わりを補せられず。しかるに彼の両国、院の御熊野詣駅家雑事のため、自今以後、指したる事なきの外、守護人を置くべからず。これに就き、諸事、仙洞の御計たるべきの由これを定めらる。よって義連の代、早く召し上ぐべきの由、御書を掃部入道寂忍の許に遣わさるるところなり。広元朝臣これを奉行す。○廿九日癸酉、陰陽師左京亮維範、京都より参着す。御祈祷の事を仰せ付けられんがため、わざともってこれを召し下ださる。

◎七月小。○十四日戊子、晴。月蝕(十分)正見す。○十九日癸巳、雨降る。午・未両時大風。御所西対顛倒す。比須末志二人、打ち損わると云々。○廿三日壬辰、掃部入道寂忍の使者参着す。和泉・紀伊両国守護代の事、御下知に任せ、去る九日参上すべきの旨これを相触る。同十三日その趣を坊門殿に言上するの由これを申す。

◎八月大。○十五日戊午、小雨。鶴岳宮放生会、将軍家既に御参宮あらんと欲するのところ、随兵已下期に臨み障りを申すの輩あり。別人を召さるるの程、数尅御出を扣えらる。もっとも神事違乱たり。これ則ち御出等の事、奉行人なきの故なり。よって民部大夫行光を召し、向後供奉人散状已下、御所中然るべき事、時において闕如なきの様、計らい沙汰すべきの旨、これを仰せ含めらると云々。申の尅に及び、御出の間、舞楽等夜に入る。松明を取りその儀あり。未だ事終わらず還御。○十六日己未、将軍家御参宮。流鏑馬已下例の如し。昨今路次の御劔、朝光これを役す。○十七日庚申、晴。放生会御出の時、障りを申すの輩の事、相州・武州・広元朝臣・善信・行光等参会し、その沙汰あるの処、或いは軽服、或いは病痾と云々。しかるに随兵の中、吾妻四郎助光その故なく不参の間、行光をもって仰されて云く、助光指したる大名にあらずといえども、常に累家の勇士としてこれに召し加えられおわんぬ。面目を存せざるか。その期に臨み不参、所存如何、てえれば、助光謝し申して云く、晴の儀たるにより用意するところの鎧、鼠のために損せらるるの間、度を失い障りを申すと云々。重ねて仰せて云く、晴の儀により用意と称するは、若くは新造の鎧か。はなはだ然るべからず。随兵は行粧を餝るべきにあらず。ただ警衛のためなり。ここにより右大将軍の御時、譜代の武士必ずこの役に候すべきの由定めらるるところなり。武勇の輩、兼ねて争か鎧一領を帯せざらん。世上の狼唳図らずして出来す。何ぞ重代の兵具をさしおき、軽色の新物を用いるべきや。かつがつ累祖の鎧等、相伝の詮なきに似たり。なかんずく恒例の神事なり。毎度新造せしむるにおいては倹約の儀に背くものか。向後諸人この儀を守るべし、てえり。助光は出仕を止めらるるところなり。

◎九月小。○廿四日丁酉、霽。掃部頭入道寂忍、京都より参着す。近江国の住人盤五家次を具し参る。これ伴四郎〓仗【けんじょう】祐兼の後胤なり。去る元久元年追討せらるるところの伊勢平氏富田三郎基度の聟なり。武威を募り謀叛を企て、又諸処の道路において往反の鄙民を煩わすと云々。去る建仁三年叡山堂衆蜂起せしむる事、家次の謀計より起こる。よって彼の時これを召し禁ぜんと擬すといえども、逃亡して行方を知らざるの処、五日、白河の辺りおいてこれを生虜すと云々。

◎十月大。○二日甲辰、囚人盤五家次を推問せらる。所存を隠密せず、悉くもって白状に載す。罪科異儀なきの間、殊に禁遏を加えらるるところなり。○八日甲戌、南風頻りに扇ぐ。終日休止せず。夜に入り、若宮大路の人家焼亡す。猛火烈しく、烟炎飛ぶが如く数町に及ぶ。○廿九日辛未、風烈し。掃部入道帰洛す。

◎十一月大。○五日丙子、晴。改元の詔書到着す。去る月廿五日建永二年を改め承元元年となす。問注所入道これを持参す。○八日己卯、陰。鶴岳宮御神楽。将軍家御参宮。○十七日戊子、伊勢国小幡村は伊勢平氏富田三郎基度のため、年来領家を忽緒しこれを押領す。滅亡の後、又没収地として新地頭を補せらるるの間、領家女房頻りにこれを愁い申さる。大夫属入道善信の奉行として今日その職を停止し、もとの如く領家の進止たるべきの由仰せ遣わさると云々。○十九日庚寅、遠州禅門の御願として伊豆国願成就院の南傍に塔婆を建立せられ、今日供養を遂げらる。本仏は大日五仏等の尊容と云々。

◎十二月小。○一日壬寅、将軍家の御祈として鶴岳宮において一日中大般若経を転読す。供僧廿五人これを奉仕す。御布施口別上絹一疋なり。民部大夫行光これを沙汰す。右京進仲業奉行たり。○三日甲辰、沍陰。白雪飛び散る。今日御所御酒宴。相州・大官令等候せらる。その間、青鷺一羽、進物所に入る。次いで寝殿の上に集う。やや久しく将軍家怪しみ思食すによりくだんの鳥を射留むべきの由仰せ出ださるるの処、折節然るべき射手御所中候わず。相州申されて云く、吾妻四郎助光、御気色を蒙ることを愁い申さんがため当時御所の近辺にあるか。これを召さるべしと云々。よって御使を遣わさるるの間。助光衣をさかしまにして参上す。引目を挟み階隠の蔭より窺い寄せて矢を発す。彼の矢、鳥にあたらざるの様にこれ見ゆといえども、鷺忽ち庭上に騒ぎ墜つ。助光これを進覧す。左眼血聊か出ず。但し死すべきの疵にあらず。この箭の羽(鷹羽。極めて強しと云々。)鳥の目を曵きて融ると云々。助光兼ねてもって相計らうところと違いなきなりと云々。生きながらこれを射留む。御感殊に甚し。元の如く眤近し奉るべきの由、ただ仰せ出ださるるのみならず、御劔を下し給うところなり。