元久三年丙寅(四月廿七日、建永元年となる)


◎正月小。○二日甲申、晴。将軍家鶴岳八幡宮に御参。朝光、御剣を持つ。○八日庚寅、霽。御所心経会。将軍家の出御已下例の如し。導師三位法橋定暁。○十二日甲午、天晴る。風静かなり。今日将軍家御読書始。相摸権守仲業(束帯)、御侍読たり。時尅、御注孝経を寝殿の南面に持参す。将軍家(御布衣)出御。事おわりて権守御馬(鞍を置く)を賜る。和田三郎朝盛これを引く。庭上に下り立ち、一拝の後退出す。○廿七日己酉、故将軍の御時拝領の地は、大罪を犯さざれば召し放つべからざるの由定めらると云々。行村、奉行たりと云々。

◎二月大。○四日乙卯、大雪降る。鶴岳宮祭例の如し。晩に及び、将軍家、雪を覧んがため、名越山の辺りに御出。相州の山庄において和歌御会あり。相摸太郎・重胤・朝親等その座に候す。○八日己未、晴。午の尅、尼御台所、鶴岳宮に参らしめ給う。駿州・民部大夫行光已下数輩、御輿の後ろに扈従すと云々。○廿日辛未、陰。一日百座仁王講勤行すべきの由、院宣を諸国に下さる。関東分今日到着す。前大膳大夫これを執啓す。○廿二日癸酉、晴。鶴岳宮のおいて百座仁王講・百座本地供を行わる。供僧等これを奉仕す。院宣を下さるるの内、相模国の分なり。前大膳大夫・属入道等宮寺に候しこれを奉行す。

◎三月大。○二日癸未、去月廿二日の除目聞書到着す。将軍家、従四位下に叙せしめ給う。前大膳大夫これを持参す。○三日甲申、鶴岳宮において一切経会を行わる。将軍家、廻廊に御参。御家人等、廟庭の座に着す。加藤判官光員、楼門の砌に候す。○四日乙酉、将軍家、鶴岳宮において奉幣せしめ給う。○十二日癸巳、桜井五郎(信濃国の住人)殊なる鷹飼なり。しかるに今日、将軍の御前において鷹を飼う口伝・故実等これを申す。頗る自讃に及ぶ。しかのみならず鵙をもって鷹の如くして鳥を取らしむべしと云う。その証を覧すべきの由じかに仰せらるといえども、当座においては難治、後日となすべきの由これを辞し申す。○十三日甲午、相州、召しにより御前に参り給う。数尅御雑談に及ぶ。将軍家仰せて云く、桜井五郎なる者あり。鵙をもって鳥を取らしむべきの由これを申す。慥かにその実を見んと欲す。これ嬰児の戯れに似たり。詮なき事かと云々。相州申されて云く、斉頼この術を専らとすと云々。末代においては希有の事なり。こともし虚誕たらば彼のために不便たり。猶もって内々に尋ね仰さるべし、てえり。この御詞未だおわらずして桜井五郎参入す。紺の直垂を着し、餌袋を右の腰に付け、鵙一羽を左手に居う。相州、簾中よりこれを見て頗る興に入る。この上は早く御覧あるべしと云々。よって御簾を上げらる。この時に及び大官令・問注所入道、已上群参す。桜井庭上に候す。黄雀、草中にあり。鵙(三寄)を合わせ三翼を取る。上下の感嘆甚だし。桜井申して云く小鳥は尋常の事なり。雉といえども更に相違あるべからずと云々。即ち御前の簀子に召され、御劔を賜る。相州これを伝え給うと云々。

◎四月小。○三日甲寅、鶴岳祭例の如し。将軍家御参宮。○二十七日戊寅、今日改元あり。元久三年を改め建永元年となす。

◎五月大。○六日丙戌、晴陰。祭主従二位能隆卿、使者を進めて申して云く、加藤左衛門尉光員は微臣の家司なり。しかるを頃年の間、関東に祗候せしむるにより、武威を募って所堪に従わず。神領においては、またほしいままに数ヶ所これを知行せしむ。あまつさえ子細を相触れず、去年十一月ひそかに使の宣旨を蒙ると云々。早くその職を止めらるべし、てえり。ここに相州・広元朝臣・善信等沙汰を経らる。光員、神領知行の事においては禁遏を加うべし。廷尉の事に至っては西面に候するの間、仙洞の御計らいたるか。関東の御沙汰に及ばざるの由これを仰せらると云々。○廿四日甲辰、雨降る。前大膳大夫の奉行として能隆卿の申す所、光員に尋ね下さるるの処、陳べ申して云く、伊勢国道前郡政所職は祭主の恩顧たるの間、その成敗に従う所なり。神領知行の事は元より開発の地、神祝に寄附するばかりなり。押領と称し難しと云々。これにより沙汰に及ばずと云々。

◎六月小。○十六日丙寅、左金吾将軍の若君(善哉公)、若宮別当坊より尼御台所の御亭に渡御す。御着袴の儀あり。将軍家、彼の御方に入御す。相州の御息等陪膳に候せらる。○廿日庚午、鶴岳宮臨時祭。将軍家御参宮。○廿一日辛未、御所の南庭において相撲を覧る。相州・大官令等候せらる。南面の御簾を上ぐ。その後おのおの庭の中央に進み勝負を決す。朝光これを奉行す。向後、相撲の事奉行すべき由と云々。一番、(三浦)高井太郎・三毛大蔵三郎(鎮西住人)。二番、(持)波多野五郎義景・大野藤八。三番、広瀬四郎助弘(相州の侍)・石井次郎(義盛近親の侍)。禄物あり。兼ねて廊根の妻戸の間に置かる。羽・色革・砂金等これを積む。事終わりて後、左右これを賜う。勝負を論ぜず、悉くもってこれを下さる。負方逐電すといえども、これを召し返さると云々。

◎七月大。○一日庚辰、伊勢平氏等蜂起の時、朝雅朝臣、大将軍として近国の御家人を相催し発向するの処、不参の輩の所領等、これを召放たるるといえども、面々子細を申し披らくにより、五条蔵人長雅已下の所領返付せらると云々。○三日壬午、三位法橋定暁、鶴岳別当に補す。今日始めて神拝を遂ぐ。その後、御所に参り、これを賀し申す。広元朝臣、申次たり。

◎八月小。○十五日甲子、晴。鶴岳放生会。舞楽例のごとし。将軍家御参。○十六日乙丑、霽。将軍家御出。流鏑馬の最中、暴風甚雨。よって晴天の期を待たるるの間、一会夜陰に及ぶ。

◎十月大。○廿日丁卯、陰。左金吾将軍の御息若君(善哉公)、尼御台所の仰せにより、将軍家の御猶子として始めて営中に入御す。御乳母夫三浦平六兵衛尉義村、御賜物等を献ず。○廿四日辛未、相州の二男(年十三)御所において元服す。次郎朝時と号す。
◎十一月小。○十八日乙未、東平太重胤、下総国より参上す。これ無双の近仕なり。しかるに白地の暇を給わり下向するの処、在国数月に及ぶ。よって御詠歌を遣わし、これを召さるるといえども、猶もって遅参するの間、御気色を蒙り籠居すと云々。○廿日丁酉、佐々木五郎義清、御出の事を奉行せしむべき由これを承ると云々。

◎十二月大。○廿三日己巳、晴。重胤、相州に参る。御気色を蒙る事、愁歎休み難きの由申す。相州仰せられて云く、これ始終の事に非ざるか。およそかくのごとき殃いに逢うは官仕の習なり。但し詠歌を献ずれば、定めて快然かと云々。よって当座において筆を染め、一首を詠ぜらる。相州これに感じ、相伴して御所に参り給う。重胤は門外に徘徊す。時に将軍家折節南面に出御す。相州、彼の歌を御前に披らき置かる。重胤愁緒の余り述懐に及ぶ。事の躰不便の由、これを申さる。将軍家御詠吟両三反に及ぶ。即ち御前に召し、片土の冬気、枯野の眺望、鷹狩、雪の後朝等の事、尋ね仰せらる。数剋の後、相州退出し給う。重胤、庭上に送り奉り、手を合わす。賢慮により免許に預かり、忽ちに沈淪の恨みを散ず。子葉孫枝、永く門下に候すべきの由これを申すと云々。