元久二年乙丑


◎正月大。○一日己未、遠州、椀飯ならびに御馬・御剣以下を献ぜらる。その役人、御剣、小山左衛門尉。御弓・征箭、三浦兵衛尉。御行騰・沓、足立左衛門尉。御馬五疋、一疋、佐原太郎・長井太郎、一疋、筑後六郎・同九郎、一疋、足立八郎・春日部二郎、一疋、長沼五郎・結城七郎、一疋、相馬五郎・東平太。○三日辛酉。千葉介、椀飯を献ず。その後、御弓始の儀あり。射手六人、二五度これを射る。一番、和田平太・藤沢四郎。二番、佐々木小三郎・市河五郎。三番、筑後六郎・荻野次郎。○四日壬戌、将軍家、尼御台所の御方に渡御す。御引出物等ありと云々。○五日癸亥、将軍家、正五位下に叙せしめ給う。○八日丙寅、御所心経会。導師真智坊隆宣。御馬已下の施物、済々す。

◎二月小。○十一日己亥、将軍家、鶴岳八幡宮(年首初度)に御参すること例のごとし。○十二日庚子、去月廿九日の除書到着す。将軍家、右中将に任じ、加賀介を兼ねしめ給う。善信、この聞書を御所に持参す。○十七日乙巳、将軍家、鶴岳に御参。これ羽林の拝賀を用いしめ給う。相州・駿河守以下数輩供奉す。安達右衛門尉景盛、御劔を持つ。○廿一日乙卯、武蔵国土袋郷の乃貢は、永福寺住侶等の供料に募らるる所なり。遠州下知し給うと云々。

◎三月大。○一日戊午、将軍家、寿福寺方丈ならびに若宮別当坊に渡御す。あるいは法文を談じ、あるいは蹴鞠をもてあそばしめ給うと云々。親広・季時以下供奉すと云々。○十二日己巳、諸庄園乃貢済期の事、これを定めらるるといえども、ややもすれば対捍に及ぶの間、向後、あるいは遠近国に随い、その期を儲けらると云々。宗掃部允奉行すと云々。○十六日癸酉、坊門殿より、扇三十本・櫛箱等、これを送進せらると云々。○廿五日壬午、勝長寿院領上総国菅生庄十二ヶ郷の事、今日、これを中分せらる。六郷をもって別当分となし、六郷を割き供僧中に給うと云々。

◎四月大。○七日甲午、佐々木判官定綱、病気により出家すと云々。○八日乙未、将軍家、鎌倉中の諸堂巡礼し給う。御騎馬。御水干なり。○九日丙甲、検非違使左衛門少尉源朝臣定綱法師卒すと云々。○十一日戊戌、鎌倉中静かならず。近国の輩群参し、兵具を整えらるるの由、その聞こえあり。また稲毛三郎重成入道、日ごろは武蔵国に蟄居す。近曽遠州の招請により、従類を引きて参上す。人これを怪しみ、かたがた説等ありと云々。○十二日己亥、将軍家、十二首和歌を詠ましめ給うと云々。

◎五月小。○三日庚申、世上の物〓【ぶっそう】、頗ぶる静謐なり。群参の御家人、仰せにより大半帰国に及ぶと云々。○十二日己巳、美作国神林寺内、故幕下将軍家追福のおんため、三重の塔婆を建てんと欲す。よって寺僧等、材木の事等を申す。よって今日当国の杣山を採用すべきの由、仰せ下さるるところなり。○十八日乙亥、鶴岳・三嶋等社、修理を加えらる。また当宮の舞装束、すでに古物たるの間、新調せらるべきにより、諸御家人等に充て催さる。清定奉行としてこれを書き下すと云々。○廿四日辛巳、安楽寺領筑後国岩田・田嶋両庄の事、社僧等の愁訴につき、その沙汰あり。今日地頭職を社家に付けらると云々。○廿五日壬午、営中において五字文殊像を供養せらる。導師寿福寺長老と云々。

◎六月小。○一日丁亥、晴、将軍家の御願として鶴岳宮において一日中大般若経一部を転読せらる。御布施、紺絹五十端。三浦兵衛尉義村これを沙汰す。○廿日丙午、晴、同宮臨時祭、例のごとし。夕に及び畠山六郎重保武蔵国より参着す。これ稲毛三郎重成入道これを招き寄すと云々。○廿一日丁未、晴、牧の御方、朝雅(去年畠山六郎のため悪口をこうむる)の讒訴を請け、欝陶せらるるの間、重忠父子を誅すべきの由、内々計議あり。先ず遠州この事を相州ならびに式部丞時房主等に仰せらる。両客申されて云く、重忠は治承四年以来、忠直を専らとするの間、右大将軍その志を鑑み給うにより、後胤を護り奉るべきの旨、慇懃の御詞を遺さるるものなり。なかんづく金吾将軍の御方に候すといえども、能員合戦の時、御方に参りその忠を抽んず。これしかしながら御父子の礼を重んじるの故なり(重忠は遠州の聟なり)。しかるに今、何の憤りをもって叛逆を企つべけんや。もし度々の勲功を棄てられ、楚忽の誅戮を加えらるれば、定めて後悔に及ぶべし。犯否の真偽を糺すの後、その沙汰あるも、停滞すべからざるかと云々。遠州重ねて詞を出さずして起座せらる。相州また退出し給う。備前守時親、牧の御方の使として、追って相州の御亭に参る。申して云く、重忠謀叛の事すでに発覚す。よって君のため世のため、事の由を遠州に漏らし申すの処、今貴殿申さるるの趣、偏えに重忠に相代わり彼の`曲を宥められんと欲す。これ継母の阿党を存し、吾れを讒者に処せられんがためかと云々。相州、この上は賢慮にあるべきの由、これを申さると云々。○廿二日戊申、快晴、寅の剋、鎌倉中驚遽す。軍兵、由浜の辺に競い走る。謀叛の輩を誅せらるべしと云々。これにより畠山六郎重保、郎従三人を具しその所に向かうの間、三浦平六兵衛尉義村、仰せをうけたまわり、佐久満太郎等をもって、重保を相囲むの処、雌雄を諍うといえども、多勢を破ることあたわず。主従共に誅せらると云々。また畠山次郎重忠参上の由、風聞の間、路次において誅すべきの由その沙汰あり。相州已下進発せらる。軍兵悉くもってこれに従う。よって御所中に祗候するの輩少なし。時に問注所入道善信、広元朝臣に相談して云く、朱雀院の御時、将門東国に起つ。数日の行程を隔つといえども、洛陽においてなお固関のごときの構えあり。上東上西両門(元土の門なり)始めて扉を建てらる。いわんや重忠すでに近所に莅み来たるか。けだし用意を廻らすべけんやと云々。これにより遠州御前に候し給う。四百人の壮士を召し上げ、御所の四面を固めらる。次いで軍兵等進発す。大手の大将軍は相州なり。先陣は葛西兵衛尉清重、後陣は堺平次兵衛尉常秀・大須賀四郎胤信・国分五郎胤通・相馬五郎義胤・東平太重胤なり。その外、足利三郎義氏・小山左衛門尉朝政・三浦兵衛尉義村・同九郎胤義・長沼五郎宗政・結城七郎朝光・宇都宮弥三郎頼綱・筑後左衛門尉知重・安達藤九郎右衛門尉景盛・中条藤右衛門尉家長・同苅田平右衛門尉義季・狩野介入道・宇佐美右衛門尉祐茂・波多野小次郎忠綱・松田次郎有経・土屋弥三郎宗光・河越次郎重時・同三郎重員・江戸太郎忠重・渋河武者所・小野寺太郎秀通・下河辺庄司行平・薗田七郎ならびに大井・品河・春日部・潮田・鹿島・小栗・行方の輩、児玉・横山・金子・村山党の者共、皆鞭を揚ぐ。関戸の大将軍は式部丞時房・和田左衛門尉義盛なり。前後の軍兵、雲霞の如く、山に列し野に満つ。午の剋おのおの武蔵国二俣河において重忠に相逢う。重忠去る十九日小衾郡菅屋の館を出で、今この沢に着すなり。折節舎弟長野三郎重清、信濃国にあり。同弟六郎重宗、奥州にあり。然る間相従うの輩、二男小次郎重秀、郎従本田次郎近常・榛沢六郎成清已下百三十四騎、鶴峯の麓に陣す。しかるに重保今朝誅を蒙るの上、軍兵また襲い来たるの由、この所においてこれを聞く。近常・成清等云く、聞くごとくんば、討手幾千万騎を知らず。吾が衆は更に件の威勢に敵し難し。早く本所に退き帰り、討手を相待ち、合戦を遂ぐべしと云々。重忠云く、その儀然るべからず。家を忘れ親を忘るるは将軍の本意なり。随って重保誅せらるるの後は、本所を顧ることあたわず。去る正治のころ、景時、一宮の館に辞し、途中において誅に伏す。暫時の命を惜しむに似たり。かつがつまた兼ねて陰謀の企てあるに似たり。賢察に恥ずべきか。尤も後車之誡を存すべしと云々。ここに襲い来たる軍兵等、おのおの意を先陣に懸け誉れを後代にのこさんと欲す。その中、安達藤九郎右衛門尉景盛、野田与一・加世次郎・飽間太郎・鶴見平次・玉村太郎・与藤次等を引率し、主従七騎、先登に進み、弓を取り鏑を挟む。重忠これを見、この金吾は弓馬放遊の旧友なり。万人を抜き一陣に赴く。何ぞこれに感じざるか。重秀彼に対し、命を軽んずべきの由下知を加う。よって挑戦数反に及ぶ。加治次郎宗季已下多くもって重忠のために誅せらる。およそ弓箭の戦、刀剱の諍、刻を移すといえどもその勝負なきの処、申の斜めに及び、愛甲三郎季隆の発するところの箭、重忠(年四十二)の身にあたる。季隆すなわち彼の首を取り、相州の陣に献ず。しかるの後、小次郎重秀(年廿三、母は右衛門尉遠元の女)ならびに郎従等自殺するの間、こと無為につく。今日未の剋、相州室(伊賀守朝光の女)男子平産す(左京兆これなり)。○廿三日己酉、晴。未の剋。相州已下鎌倉に帰参せらる。遠州、戦場の事を尋ね申さる。相州申されて云く、重忠の弟・親類大略もって他所にあり。戦場に相従うの者僅かに百余輩なり。然れば、謀叛を企つる事すでに虚誕たり。もしくは讒訴により、誅戮に逢うか。はなはだもって不便なり。首を斬り陣頭に持ち来る。これを見るに年来合眼の昵を忘れず。悲涙禁じ難しと云々。遠州仰せらるるの旨なしと云々。酉の剋、鎌倉中また騒動す。これ三浦平六兵衛尉義村、重ねて思慮を廻らし、経師谷口において、謀りて榛谷四郎重朝・同嫡男太郎重季・次郎秀重等を討つなり。稲毛入道、大河戸三郎のために誅せらる。子息小沢次郎重政は宇佐美与一これを誅す。今度の合戦の起こりは偏に彼の重成法師の謀曲にあり。所謂右衛門権左朝雅、畠山次郎において遺恨あるの間、彼の一族反逆を巧みとするの由、頻りに牧の御方(遠州室)に讒申すにより、遠州ひそかにこの事を稲毛に示し合わさるるの間、稲毛、親族の好を変じ、当時鎌倉中に兵起あるの由、消息に就きて〈※子息に仰す〉。重忠途中において不意の横死に逢う。人もって悲歎せざるはなしと云々。○廿六日壬子、関東の国々守護検断・地頭所務以下事、先規に任せ、厳密の沙汰を致すべきの由仰せありと云々。○廿八日甲寅、武蔵国久下郷をもって勝長寿院弥勒堂領に寄進せらると云々。○廿九日乙卯、相州、鶴岳供僧等を〓【くっ】し、一日中、大般若経一部を転読せらる。御宿願あり。殊に丹誠を凝らさると云々。

◎七月大。○一日丙辰、去る月合戦以後、始めて営中において盃酒の儀あり。和田左衛門尉これを献ず。○八日癸亥、畠山次郎重忠余党等の所領をもって勲功の輩に賜う。尼御台所の御計なり。将軍家御幼稚の間かくのごとしと云々。○廿日乙亥、尼御台所の御方の女房五六輩、新恩に浴す。これまた亡卒の遺領なり云々。

◎閏七月小。○十九日甲辰、晴。牧御方`謀を廻らし、朝雅をもって関東将軍となし、当将軍家(時に遠州亭におわします)を謀り奉るべきの由、その聞えあり。よって尼御台所、長沼五郎宗政・結城七郎朝光・三浦兵衛尉義村・同九郎胤義・天野六郎政景等を遣わし、羽林を迎え奉らる。すなわち相州亭に入御するの間。遠州召し聚めらるるところの勇士ことごとくもって彼の所に参入し、将軍家を守護し奉る。同日丑刻、遠州俄にもって落餝せしめ給う(年六十八)。同時に出家するの輩、勝げて計うべからず。○廿日乙巳、晴。辰の刻、遠州禅室、伊豆北条郡に下向し給う。今日相州執権の事をうけたまわらしめ給うと云々。今日前大膳大夫属入道・藤九郎右衛門尉等相州御亭に参会して評議を経られ、使者を京都に発せらる。これ右衛門権佐朝雅を誅すべきの由、在京御家人等に仰せらるるによるなり。○廿五日庚戌、晴。去廿日進発の東使、今日夜に入り入洛す。すなわち事の由を在京の健士に相触ると云々。 ○廿六日辛亥、晴。右衛門権佐朝雅、仙洞に候す。未だ退出せざるの間、囲碁の会あるの処、小舎人童走り来りて金吾を招き、追討使の事を告ぐ。金吾更に驚き動かず。本所に帰参す。目算せしむるの後、関東より誅罰の専使を差し上げらるれば、遁避するによんどころなし。早く身の暇を給わるべきの旨奏しおわんぬ。六角東洞院の宿廬に退出するの後、軍兵五条判官有範・後藤左衛門尉基清・源三左衛門尉親長・佐々木左衛門尉広綱・同弥太郎高重已下襲い到る。しばらく相戦うといえども、朝雅、度を失い逃亡し、松坂の辺りに逃る。金持六郎広親・佐々木三郎兵衛尉盛綱等、彼の後を追うのところ、山内持寿丸(後に六郎通基と号す。刑部大夫経俊の六男)右金吾を射留むと云々。○廿九日甲寅、河野四郎通信、勲功他に異なるにより、伊予国の御家人三十二人、守護の沙汰を止め、通信の沙汰として御家人役を勤仕せしむべきの由、御書(将軍の御判を載す)を下さる。件の三十二人の名字、御書の端に載せらるるところなり。善信これを奉行す。頼季(浅海太郎、同舎弟等)、公久(橘六)、光達〔遠〕(新三郎)、高茂(浮穴新大夫)、高房(田窪太郎、同舎弟)、家員(白石三郎)、兼恒(高野小大夫、同舎弟)、清員(垣生太郎、同舎弟)、実蓮(真膳房)、重仲(井門太郎)、山前権守(同弟)、信家(大内三郎、同弟)、高久(十郎大夫)、余戸源三入道(俊恒)、高盛(久万太郎大夫、同弟)、永助(久万太郎)、安任(江四郎大夫)、家平(吉木三郎)、高兼(日吉四郎、同舎弟)、長員(別宮大夫)、頼高(別宮新大夫同舎弟)、吉盛(別宮七郎大夫)、。安時(三島大祝)、頼重(弥熊三郎)、遠安(藤三大夫、同舎弟)、信任(江二郎大夫)、紀六太郎、信忠(寺町五郎大夫)、時永(寺町小大夫)、助忠(主藤三)、忠貞(寺町十郎)、頼恒(太郎)、已上三十二人と云々。

◎八月小。○二日丙辰、晴。京都に発遣するの飛脚、関東に帰参す。金吾、誅に伏すの由これを申す。○五日己未、霽。子の刻、大岡備前守時親出家す。これ遠州落餝せらるる事によってなり。○七日辛酉、陰。宇都宮弥三郎頼綱の謀叛発覚す。すでに一族ならびに郎従等を引卒し、鎌倉に参らんと擬するの由、風聞あるにより、相州・広元朝臣・景盛等、尼御台所の御亭に参り、評議あり。事おわりて小山左衛門尉朝政(曳柿の水干袴を着す)を召す。朝政参上し、相州の御座に対し蹲居す。広元仰せをうけたまわりて云く、近日諸人の狼唳相続かしめ、東関静謐ならず。その慎しみこれ重きの処、頼綱また`曲を巧みにし、将軍家を謀り奉らんと欲すと云々。しかるに朝政の曩祖秀郷朝臣、将門を追討し勧賞に預かりて以来、下州を護る。その職未だ中絶せず。国内(宇都宮)の驕奢、いかでこれを鎮めざらんや。随って去る寿永二年、志太三郎先生の蜂起を対治するの間、都鄙感を動かす。よって賞を行わるるの日、御下文の旨趣厳密なり。これ武芸の眉目なり。しかればまた頼綱の驕りを退くべし、てえれば、朝政申して云く、頼綱は叔家の好あり。たとえ厳命に応じ、その昵を変ずといえども、たちまち追討使をうけたまわるは芳情なきか。早く他の人に仰せらるべきか。但し朝政、叛逆に与同せず。防戦においては筋力を尽くすべきの由これを辞し申す。○十一日癸酉、晴。宇都宮弥三郎頼綱、状を相州に献ず。朝政、状を彼の文に相副え取り進る。これ謀計を存せざるの由陳べ申す。けだし朝政の教訓を得るの故なり。それにつき大官令のごときは清談を凝らし、御報あたわずと云々。○十五日己巳、甚雨。鶴岡放生会。将軍家御出なし。駿河前司季時、奉幣の御使たりと云々。○十六日庚午、霽。将軍家また御出なし。季時の参宮昨に同じ。今日宇都宮弥三郎頼綱下野国において遁俗す(法名蓮生)。同じく出家する郎従六十余人と云々。○十七日辛未、晴。蓮生法師宇都宮を立ち鎌倉に進発す。これその誤りなきの由を謝し申さんがためと云々。○十九日癸酉、宇都宮弥三郎入道蓮生、鎌倉に到着す。相州の御亭に参るといえども、対面し給わず。結城七郎朝光に付し髻を献ず。これ陳謝の余りなり。朝光慇懃にこれを執り申す。髻においては御覧を歴るの後、朝光に預けらるるところと云々。

◎九月大。○二日乙酉、内藤兵衛尉朝親、京都より下着す。新古今和歌集を持参す。これ通具・有家・定家・家隆・雅経等の朝臣、勅定をうけたまわり、和歌所において去る三月十六日これを撰進し、同四月奏覧す。未だ竟宴を行われず。また披露の儀なし。しかるに将軍家和語を好ましめ給うの上、故右大将軍の御詠撰び入れらるるの由聞こしめすにつき、しきりに御覧の志ありといえども、わざと尋ね申さるるに及ばず。しかるに朝親たまたま定家朝臣につき当道を嗜み、すなわちこの集の作者(読み人知らず)に列するの間、計略を廻らし書き進るべきの由。仰せ含めらるるの処、朝雅・重忠等の事により都鄙静かならざるの故、今に遅引すと云々。○十九日壬寅、伯耆国宇多河庄地頭職をもって大原来迎院に施入せらると云々。広元朝臣これを奉行す。○廿日癸卯、晴。首藤刑部丞経俊款状を捧ぐ。これ去る春のころ、伊勢平氏蜂起の時、無勢により、軍士を聚めんがため、暫くその国を遁るるの処、朝雅を差し遣わし、平氏を誅せらるるの間、経俊帯するところの伊賀・伊勢守護職をもって朝雅の賞に宛てらる。しかるに時において進退するは兵の故実なり。強ち不可に処せられ難きか。なかんずく朝雅の謀叛を対治する事、諸人勲功の号ありといえども、正に誅罰を加うるは独り愚息持寿丸の兵略にあるなり。くだんの両国守護職はたまたま日来朝雅の帯するところなり。かつがつ経俊の本職なり。理運に任せ、忠節により、返し給うべきの趣これを載すと云々。但し御許容なきか。随ってこの所これより先、帯刀長惟信を補せらるるものなり。

◎十月小。○十日癸亥、駿河前司季時、京都守護として上洛す。○十三日丙寅、晴。五条判官有範の使者、京都より参着す。申して云く、去る二日子刻、比叡山法華堂の渡廊に放火あり。講堂・四王院・延命院・法華堂・常行堂・文殊桜・五仏院・実相院・丈六堂・五大堂・御経蔵・虚空蔵王・惣社・南谷・彼岸所・円融坊・極楽坊・香集坊、皆もって灰燼となる。余炎中堂に及ばんと欲するの間、本尊十二神将像、随自喜堂に渡し奉りおわんぬ。前唐院の聖教・宝物等取り出し奉る。法華常行堂の供養法、食堂においてこれを修す。放火の事。堂衆の所行かの由その疑いありと云々。当山、桓武天皇の御宇延暦四(六―)年乙丑七月廿日、伝教大師これをいとなみ始め、根本中堂を草創してより以降、朱雀院の承平五年乙未三月十六日の火災、中堂(本尊これを取り出し奉る)已下堂舎僧坊四十余ヶ所焼亡す。村上天皇の康保二年乙丑十月廿八日戊子、亥刻、延暦寺講堂・文殊桜・延命院の本堂・法華三昧・常行三昧堂・鐘楼および僧坊等卅一宇、一時に焼失す。火、故座主の喜慶坊に出る。但し四王院の四天像、僅に存すといえども、北方像腰より焼絶し、頭足すでに別る。見る者悲涙を拭うと云々。しかるに今年また乙丑歳に当たる。十月この災あり。不思議というべきか。

◎十一月大。○三日乙酉。小沢左近将監信重、綾小路三位(師季)の息女(二歳)を相伴し、京都より参着す。すなわち行光をもって事の由を尼御台所に啓すと云々。これ母儀は稲毛三郎入道重成の女。遠州禅室の御外孫なり。去る六月重成入道誅せらるるの後、乳母夫信重扶持の号ありといえども、なお彼の余殃を恐れ隠居するの処、尼御台所御哀愍あるべきの由、内々仰せらるるの間、参向すと云々。○四日丙戌、晴。夜に入り、綾小路姫君尼御台所の御亭に参らる。御猶子となすべきの儀なり。武蔵国小沢郷(稲毛入道の遣領)知行せらるべきの由仰せらると云々。○十五日丁酉、相馬次郎師常卒す(年六十七)。端坐合掌せしめ、更に動揺せず。往生決定すること敢えてその疑いなし。これ念仏行者なり。結縁と称し、緇素挙集しこれを拝す。○廿日壬寅、和与芳心物たるにおいては改変すべからざるの由、今日定めらる。図書允清定これを奉行す。

◎十二月大。○二日甲寅、故左金吾将軍の若公(善哉公と号す)、尼御台所の御計らいにより、(コノ間、脱アルカ)鶴岡別当宰相阿闍梨尊暁の門弟なり。酉の刻、彼の本坊に渡御す。侍五人扈従す。○十日壬戌、伊勢平氏跡の新補地頭の事、今日率法を定められ、悉くこれを施行せらる。清定奉行たりと云々。○十八日庚午、御台所、鶴岳宮に御参。御車(八葉)を用いらる。女房の出車二両、連軒す。○廿四日丙子、黒柄次郎入道、去十日上総国において追捕狼籍を致すの由、公文名主の訴えあるにより、その沙汰に及ぶ。光行・行村、奉行たり。行村、今日上総国奉行となると云々。