建仁四年甲子(正月廿日、元久元年となす)


正月大
五日己巳、天霽る。風静かなり。将軍家(去年十月廿四日右兵衛佐に任じおわします)、始めて鶴岡八幡宮に御参。前後の供奉人、墻をなす。朝光御剣を持つ。宮寺において法華経を供養す。安楽房導師たり。請僧六口なり。その後、御布施を引かる。口別帖絹三疋。筑後太郎朝重これを沙汰すと云々。
八日壬申、陰。御所心経会。導師真智房法橋。請僧六口。将軍家南面に出御す。事おわりて御馬を牽かる。
十日甲戌、晴。寒風はなはだ利し。午刻に及びようやく休止す。御弓始有り。将軍家出御す。御簾を上げらる。射手六人。おのおの二五度。射終わるの後。西廊において禄に預かる。行騰・沓・弓・征箭等なり。
 射手、
一番 和田平太胤長    榛谷四郎重朝
二番 諏方大夫盛隆    海野小太郎行氏
三番 望月三郎重隆    吾妻四郎助光
十二日丙子、晴。将軍家御読書(孝経)始。相模権守、御侍読たり。この儒、殊なる文章なきにより。才名の誉なしといえども、好んで書籍を集め、詳かに百家九流に通ずと云々。御読合の後、砂金五十両・御剣一腰を中章に賜る。
十四日戊寅、霽。将軍家二所御精進始。
十八日壬午、天顔快晴。辰の刻、鶴岳別当阿闍梨尊暁、将軍家の御祈祷のため、二所に進発す。江馬四郎主、奉幣の御使として同じく参り給う。先ず御所に参り、南庭に跪かる(僮僕皆門外に在り)。将軍家南の階より下御す。庭上において伊豆・筥根・三嶋の方に向かい、廿一反拝し給う(おのおの七返)。次いで四郎主その所を起ち、鶴岳宮に参るの後、進発せらる。
廿二日丙戌、細雨〔灑ぐ〕。晩鐘の程、江間殿二所より還向す。伊豆山より直に参着せらると云々。

二月小
九日癸卯、晴。鶴岳の御神楽、例のごとし。前大膳大夫広元朝臣、奉幣の御使たり。
十日甲辰、伊勢国員弁郡司進士行綱、囚人として召し置かる。義盛の訴えによってなり。
十二日丙午。将軍家、由比浜に出でしめ給う。供奉人江間四郎以下水干を着せらる。或は野箭、或は征箭なり。北条五郎・和田平太・多々良四郎・榛谷四郎・海野小太郎・望月三郎・諏訪大夫・藤澤四郎・愛甲三郎、おのおの小笠懸・遠笠懸の的等を射る。桟敷において御覧あり。
十三日丁未、法華堂の御仏事。導師摩尼房阿闍梨と云々。
廿日甲寅、諸庄園の所務等、一事以上、右大将家の御時の例に任せ、沙汰せらるべきの旨、遠州下知せしめ給うと云々。
廿一日乙卯、尼御台所、御逆修を始行せらる。
廿二日丙辰、備後国御調本北条、地頭四方田左近将監の沙汰を停止し、国衙に付けらると云々。遠州下知す。
廿五日己未、将軍家、江間四郎亭に渡御す。
廿八日壬戌、今日、御逆修結願なり。導師寿福寺方丈。

三月大
一日甲子、晴。京都の使者参る。去月廿日、建仁四年を改め元久元年となす。また同廿五日、上皇、天王寺に御幸す。これ金堂修理供養と云々。
三日丙寅、霽。鶴岳宮神事法会、例のごとし。駿河守季時奉幣の御使たり。
九日壬申、晴。武蔵守朝雅の飛脚到着す。申して云く、去月日、雅楽助平維基の子孫等伊賀国に起つ。中宮長同度光の子息等伊勢国に起つ。おのおの叛逆すと云々。彼の両国守護人山内首藤刑部丞経俊子細を相尋ぬるのところ、左右なく合戦を企つ。経俊無勢により逃亡するの間、凶徒等、二ヶ国を虜領し、鈴鹿の関・八峯山等の道路を固む。よって上洛の人なしと云々。
十日癸酉、霽。京都の飛脚帰洛す。謀叛人の事、彼の国に発向し糾弾せしむべきの由朝政に仰せらると云々。
十五日戊寅、幕府において天台止観談議を始めらる。尼御台所御聴聞のため将軍の御方に渡御すと云々。
廿二日乙酉、鎮西の乃貢の事、掃部頭入道寂忍勘定せしむべきの由仰せ遣わさると云々。
廿七日庚寅、将軍家、勝長寿院に御参。
廿九日壬辰、伊賀・伊勢両国平氏謀叛の事、その後左右を申さざるの間、すこぶる御不審なきにあらず。よって今日昼夜の雑色等を遣わさる。武蔵守朝雅の下知に随い、発向すべきの旨、重ねて京畿の御家人の中に仰せらると云々。広元朝臣これを奉行す。

四月小
一日甲午、駿河・武蔵・越後等の国々、重ねて内検を遂ぐべきにより、宣衡・仲業・明定等を下し遣わさるべきの由、その沙汰有り。広元朝臣・清定奉行たり。
日癸卯、晴。笠置解脱上人の使者、去るころ参着す。当寺において礼堂を建つべき間、将軍家の御奉加を申すところなり。よって今日砂金已下の重宝等を彼の使に賜う。ただし御奉加の状なしと云々。
十六日己酉、駿河以下三ヶ国内検の事、先日決定せしむといえども、重ねてその沙汰有りて延引す。これ去年御代始の故、撫民の御計らいあるべきにより、有限の乃貢なお員数を減らされおわんぬ。今年その節を遂げらるるにおいては、民戸定めて休み難きか。しかれば善政を行われざるがごとし。暫く閣かるべきの由と云々。
十八日辛亥、将軍家、御夢想の告により、岩殿観音堂に参り給う。遠州ならびに四郎・五郎等の主、及び広元朝臣以下、扈従雲霞のごとし。三浦左衛門尉御駄餉と云々。
廿日癸丑、御家人の中、故右大将軍自筆の御書を帯するの輩、ままこれ在りと云々。進覧すべきの由仰せ下さる。これを写し留められんがためなり。清定、奉行としてこれを召し仰すと云々。
廿一日甲寅、晴。武蔵守朝雅の飛脚到着す。申して云く、去月廿三日出京す。ここに伊勢平氏等鈴鹿の関所を塞ぎ、険阻を索むるの際、たとえ合戦を遂げずといえども、人馬これを通し難きにより、美濃国を廻りて、同廿七日に伊勢国に入り、計議を凝らす。今月十日より同十二日に至るまで合戦す。先ず進士三郎基度の朝明郡冨田の舘を襲う。挑戦刻を移す。基度ならびに舎弟松本三郎盛光・同四郎・同九郎等を誅す。次いで安濃郡において岡八郎貞重、及び子息伴類を攻撃す。次いで多気郡に到り庄田三郎佐房・同子息師房等と相戦う。彼の輩遂に以って敗北す。また河田刑部大夫を生虜す。およそ狼唳両国を靡かすといえども、蜂起三日を軼ぎず。件の残党なお伊賀国に在り。重ねてこれを追討すべしと云々。

五月小
五日丁卯、陰。鶴岳臨時祭例のごとし。将軍家、御参宮なし。広元朝臣、奉幣の御使たり。
六日戊辰、晴。朝雅の飛脚重ねて到来す。去月廿九日伊勢国に到る。平氏雅楽助三郎盛時ならびに子姪等、城郭を当国六ヶ山に構え、数日相支うといえども。朝雅武勇を励ますの間、彼らの防戦利を失い敗北す。およそ張本若菜五郎の城郭を構うる処所は、所謂、伊勢国日永・若松・南村・高角・関・北野等なり。遂に関・北野においてその命を亡うと云々。度々の合戦の次第、軍士の忠否等、分明にこれを註し申す。山内首藤刑部丞経俊・同瀧口六郎ら、始めは平氏の猛威を怖れ、逐電せしむるといえども、後には朝雅に行き逢い、相共に征伐に励むの由。同じくこれを載すと云々。
八日庚午、国司らの訴えにつき、沙汰を経らるるの事有り。所謂山海狩漁、国衙の所役に従うべき事、塩屋の所当、参分の一をもって地頭分となし、抑留の儀を止むべき事、節料焼米、国司の得分となすべき事、以上三ヶ条、且つうは国宣に従い。且つは先例に任せて沙汰を致すべきの旨、地頭らに仰せ付けらる。左衛門尉義村・左京進仲業、奉行たりと云々。また伊勢国員弁郡司進士行綱、夜討ちの疑いあるにより、囚人となすといえども、彼の夜討ちは、伊勢平氏若菜五郎らの所行たるの由、従類の白状出来するの間、行綱の過なきの旨、その沙汰あり。今日厚免を蒙り、あまつさえ本所に安堵すべきの趣、遠州下知を加え給うと云々。
十日壬申、伊勢平氏ら追討の賞の事、その沙汰あり。広元朝臣・問注所入道らこれを奉行す。朝雅、伊勢国守護職に補任す。また彼の輩の私領水田を給わる。くだんの両国守護は経俊の本職なり。しかるに平氏の片時の権威に恐れ逃亡するの間、改め補せらるるところなり。
十六日戊寅、尼御台所、金剛寿福寺において御仏事を修せらる。祖父母の御追善と云々。
十九日辛巳、故右大将家の御書等の事、先日の御尋ねにつき、所持の輩多くもってこれを進覧せしむ。その中、小山左衛門尉・同七郎・千葉介、おのおの数十通を献ぜしむ。その外は或は一紙、若しくは両三通〈これを進覧す〉。皆これを写し置かる。彼の時の御成敗の意趣を知ろしめされんがためなり。広元朝臣申し行うと云々。

六月小
一日壬辰、将軍家の御願として、今日中に愛染明王像三十三体を造立せられ、即ち供養の儀有り。導師荘厳房行勇と云々。
八日己亥、伊勢平氏追討の賞の事、重ねてその沙汰あり。先度恩に漏るるの輩光員以下愁眉を開く。彼の亡卒跡の散在名田等と云々。遠州これを下知せしめ給うと云々。
廿日辛亥、臨時祭たるにより、将軍家(右少将。去る三月一日任じ給う)鶴岳八幡宮に御参。神馬二疋を奉らる。流鏑馬・経供養、例のごとし。

七月大
十四日甲戌、未の刻、将軍家俄かにもって痢病を患わしめ給う。諸人群参すと云々。
十五日乙亥、将軍家の御不例、なお平癒の儀なし。よって鶴岳宮において、信読大般若経を始行せらる。当宮供僧らこれを奉仕す。駿河守季時、御使として宮寺に参る。三ヶ日中に結願すべきの由、仰せ下さるるところなり。
十九日己卯、西の刻、伊豆国の飛脚参着す。昨日(十八日)、左金吾禅閤(年廿三)、当国修禅寺において薨じ給うの由これを申すと云々。
廿三日癸酉、快霽。将軍家御病悩平癒の間、沐浴し給う。
廿四日甲申、左金吾禅閤の御家人ら片土に隠居し謀叛を企つ。ここに発覚するの間、相州、金窪太郎行親已下を差し遣わし、忽ちにもってこれを誅戮せらる。
廿六日丙戌、安芸国壬生庄地頭職の事、山形五郎為忠と小代八郎らと相論するの間、守護人宗左衛門尉孝親の注進状につき、今日御前において一決せらる。遠州ならびに広元朝臣ら御前に候せらる。これ将軍家直に政道を聴断せしめ給うの始めなり。

八月小
三日癸巳、今日、鎌倉中の寺社領等の事、その沙汰あり。左京進仲業、永福寺公文職に補す。かつがつ寺中の沙汰を奉行せしめ、寺領年貢の進未を明らむべきの由、仰せ付けらると云々。
四日甲午、将軍家御嫁娶の事、日ごろは上総前司の息女たるべきかの由、その沙汰有りといえども、御許容に及ばず。京都に申さるることすでにおわんぬ。よって彼の御迎以下用意の事、今日、内談有り。供奉人においては直の御計らいとして、人数を定めらる。容儀花麗の壮士をもって撰らび遣わさるべきの由と云々。
十五日乙巳、鶴岳放生会、将軍家御軽服の間、宮寺に付してこれを行わる。夜に入り、将軍家明月に乗じて由比浦に出しめ給う。一両艘の舟舩を粧い、六七輩の伶人を召す。管絃おのおの妙曲を尽くす。
廿一日辛亥、石清水八幡寺領河内国高井田の事、将軍家の御祈祷所として、地頭を止められおわんぬ。宮寺の沙汰たるべきの由、今日仰せ遣わさると云々。

九月大
一日丙寅、近習の輩十余人任官の事、これを挙げ申さると云々。
二日丁卯、将軍家御馬二疋(河原毛・栗毛駮)をもって、伊勢内外両宮に奉らる。新藤二俊長・和泉掾景家らこれを相具し、今朝進発すと云々。
十三日戊寅、法華堂御仏事おわんぬ。秉燭の程、盗人、別当の大学坊に入り、先考の御遺物・重宝等を盗み取る。即ち馳せ申すの間、当番衆らに仰せ、犯人を明らめ尋ねらるるといえども、跡を晦まし行方を知らずと云々。
十五日甲戌、霽。将軍家、去る夜、白地に相州の御亭に入御す。即ち還御あらんと欲するのところ、亭主抑留し奉り給う。今夜月食たるにより、不意にまた御逗留。亭主殊に興に入り給う。その間、行光座に候す。申して云く、京極大閤の御時、白河院、宇治に御幸し、還御あらんと擬す。余興尽きざるの間、なお御逗留を申さる。しかるに明日還御あらば、宇治より洛陽は北に当たる。方忌の憚り有るべしと云々。殿下の御遺恨甚だしきのところ、行家朝臣、喜撰法師の詠歌を引き、今、宇治は都の南にあらず。巽たるの由これを申す。ここにより、その日還御を止めらると云々。今夕の月蝕、もっとも天の然らしむるところなりと云々。相州殊に御感と云々。

十月小
六日乙未、亥の刻、大地震。
十日己亥、風烈し。雨頻りに降る。申の刻、雷鳴両三声。
十四日癸卯、坊門前大納言(信清卿)の息女、将軍家の御台所として、下向せしめ給うべきにより、御迎のため人々上洛す。所謂、左馬権助・結城七郎・千葉平次兵衛尉・畠山六郎・筑後六郎・和田三郎・土肥先次郎・葛西十郎・佐原太郎・多々良四郎・長井太郎・宇佐美三郎・佐々木小三郎・南条平次・安西四郎等なり。
十七日丙午、大隅国正八幡宮寺訴え申す事、沙汰を経らる。これ故右幕下の御時、掃部頭入道寂忍、正宮地頭たるのところ、宮寺、子細を申すにより、その儀を停止せられおわんぬ。その後、また三ヶ所に三人の地頭を補せらるるの間、造宮の功成し難きの由と云々。よって今日、彼の地頭職等を止むるところなり。帖作郷地頭肥後坊良西、荒田庄地頭山北六郎種頼、万得名地頭馬部入道浄賢と云々。広元朝臣これを奉行す。
十八日丁未、諸国庄園郷保地頭等、事を勲功の賞に寄せ、非例を構え、所務を濫妨するの由、国司・領家の訴訟出来するの間、今日その沙汰あり。名田と云い、所職と云い、本下司の跡に任せ、沙汰を致すべし。御旨に背かば、職を改むべきの旨、仰せ下さると云々。仲業・清定奉行すと云々。

十一月大
三日辛酉、将軍家聊か御不例と云々。
四日壬戌、伊勢国三日平氏跡の新補地頭等、武威を募り、大神宮御上分米を停止するの由、本宮これを訴え申す。彼の地は当国散在の田畠なり。平氏、地下を管領すといえども、上分米においては本宮に備進するの条、所見分明の間、清定の奉行として、先例を守り、その弁を致すべきの由、今日仰せ下さると云々。
五日癸亥、子の尅、従五位下行左馬権助平朝臣政範卒す(年十六、時に在京す)。
七日乙丑、笠置解脱上人の使者参着す。申して云く、去月十五日、礼堂造畢の間、無為に供養を遂ぐと云々。これ将軍家御奉加の事、賀し申すの故なりと云々。
九日丁卯、将軍家の御不例平癒の後、御沐浴の儀有りと云々。
十三日辛未、遠江左馬助、去る五日京都において卒去するの由、飛脚到着す。これ遠州当時の寵物牧の御方腹の愛子なり。御台所の御迎として去月上洛し、去る三日に京着す。路次より病悩、遂に大事に及ぶ。父母の悲歎さらに比ぶべきなしと云々。
十七日乙亥、法華堂の重宝等、去る九月紛失するの間、尋ね求むべきの由、所々に触れ仰せらるるのところ、武蔵国洲河において、地頭、件の犯人を搦め取り、今日、和田左衛門尉の宅に将来す。重宝悉くこれを尋ね取り、随身せしむと云々。
十八日丙子、法華堂の御剣以下の重宝等、別当房に返し渡さる。洲河、御感の仰せを蒙る。恩沢に浴すべきの由と云々。
廿日戊寅、故遠江左馬助の僮僕等、京都より帰着す。去る六日、東山の辺りに葬すと云々。また同四日、武蔵前司朝雅の六角東洞院第において酒宴の間、亭主と畠山六郎と諍論の儀有り。しかれども会合の輩これを宥むるにより、無為に退散しおわんぬの由、今日風聞すと云々。
廿六日甲申、将軍家、日ごろ画工に仰せ、京都において将門合戦絵を図せらる。今日到来す。掃部頭入道調進するところなり。二十ヶ巻。蒔絵の櫃に納む。殊に御自愛と云々。

十二月大
十日戊戌、御台所御下着と云々。
十七日甲辰、将軍家、前大膳大夫広元朝臣の家に入御すと云々。
十八日乙巳、尼御台所の御願として七観音像を図絵せらる。去るころ南都より到着す。今日、彼の御方において供養を遂げらる。導師金剛寿福寺方丈葉上坊、願文仲章朝臣これを草す。将軍家、御結縁のため渡御すと云々。
廿二日己酉、御台所の御方祇候の男女数輩、地頭職を拝領すと云々。