『吾妻鏡』の魅力


成立 13世紀末〜14世紀初
編者 未詳(幕府奉行人)
巻数 原巻数未詳(内閣文庫所蔵北条本や流布本は52冊、内1冊欠とする)
最古の写本 尊経閣文庫所蔵『東鑑(寿永三年)』は断簡ながらも鎌倉末〜室町初期の写本といわれている

 名著『日本中世史』で知られる原勝郎氏が「吾妻鏡が鎌倉時代史の貴重なる史料なることは苟も史学に志ある者の知悉する所たり」と述べたのは今から100年余り前のこと。それに先立つ『史学雑誌』創刊号(1898)でも史料解題の第一に星野恒「吾妻鏡考」が掲げられているから、史料としての『吾妻鏡』は日本の近代歴史学とともにあったと言えるだろう。
 今日でも日本古代史の演習テキストの定番が『続日本紀』ならば、日本中世史の定番はやはり『吾妻鏡』である。大学のみならず、各地のカルチャーセンターや市民向けの講座でも「吾妻鏡を読む」という講座名を目にすることは多い。中世史研究が扱う時代は広がり、利用する資料も多岐にわたっているが、それでもなお『吾妻鏡』が取り上げられるのは、この書物が中世史研究の基本史料としての位置を失っておらず、中世社会の様々な側面を映し出す鏡であり続けているからだと思われる。
 しかし、その反面、『吾妻鏡』をめぐる研究状況は必ずしも良好ではない。何種類もの注釈書、最善本の影印複製本が刊行されている『続日本紀』と比べるまでもなく、その手のものはいっさい刊行されていない。活字本、読み下し本は複数あるが、決定版といえるような信頼できるテキストさえないのである。『吾妻鏡』そのものについての研究書も80年以上前の八代国治『吾妻鏡の研究』以後ほとんど見られず、わずかに五味文彦『吾妻鏡の方法』(吉川弘文館)があるだけである。『吾妻鏡』はまだまだ謎に満ちている。
 現在知られている最善本は大永2年(1522)の奥書を持つ吉川本である。大内氏の家臣右田弘詮が文亀(1501〜1504)の初めごろ写し得た42冊に、手段を尽くして探し求めた散逸部分5冊・年譜1冊を加えて写し直した計48冊で、現在は山口県岩国市の吉川家の所蔵に帰している。私も数年前に閲覧させていただいたことがあるが、500年近い時を経ているとは思えない保存状態良好な本である。吉川本に次ぐ善本が内閣文庫所蔵の北条本で、小田原北条氏から黒田孝高・長政の手を経て慶長9年(1604)徳川秀忠に献じられた本である。51冊からなるが、すべてが北条氏の旧蔵書というわけではなく、半数近くが後年に補写されたものである。北条本は、現在広くテキストとして用いられている『新訂増補国史大系』(吉川弘文館)の底本であり、徳川家康が相国寺の僧承兌に命じて出版させた慶長古活字版の底本でもある。吾妻鏡を東鑑と表記することがあるが、これは古活字版の表紙に用いられた『東鑑』の書名が江戸時代の版本でも用いられて広く流布したからである。
 さて、『吾妻鏡』はいうまでもなく鎌倉幕府の歴史を記した歴史書(編纂物)である。治承4年(1180)4月9日、平清盛の追討を命じる以仁王の令旨が源頼朝ら全国の源氏に向けて発せられたことから筆を起こし、頼朝・頼家・実朝の源氏将軍、頼経・頼嗣の摂関家藤原氏出身将軍、皇族出身の将軍宗尊親王の時代の出来事を編年体(出来事の起こった年代順)で書き記して、文永3年(1266)7月20日、鎌倉を追放された宗尊親王が京都に帰り着いた記事をもって終えられている。巻頭の治承四年と頼家・実朝・頼嗣・宗尊の将軍就任記事から始まる巻の冒頭部分には、天皇や摂政関白・征夷大将軍の出自や略歴を記した袖書と呼ばれる部分があり、代替わりの部分では一部日付の重複も見られるから、原則として各将軍ごとにひとかたまりとなる構成、すなわち、頼朝将軍記・頼家将軍記・実朝将軍記・頼経将軍記・頼嗣将軍記・宗尊将軍記という形で編纂されていたと見てよい。ただ、問題を残しているのが頼経将軍記の部分で、頼経のところには袖書が置かれていない。おそらくは事実上の鎌倉殿として大きな存在であった北条政子の治世を独立させるか否かというあたりを曖昧に処理してしまったために、実朝将軍記と頼経将軍記との間が不明確になってしまったのだろう。
 では、『吾妻鏡』はいつ、どのようにして編纂されたのだろうか。
 八代国治氏は頼朝・頼家・実朝の三代に相当する前半部分と頼経・頼嗣・宗尊の三代に当たる後半部分とに分け、前半は文永2年(1265)〜同10年(1273)の間に執権北条時宗・連署北条政村のもとで編纂され、蒙古襲来による編纂事業の中絶を経た正応3年(1290)〜嘉元2年(1304)の間に北条貞時のもとで後半部分が編纂されたと考えた。これについては益田宗氏・笠松宏至氏らの批判があり、13世紀末から14世紀初頭にかけての時期に一括して編纂されたと見るのが妥当であろう。編纂主導者については北条氏得宗と見るのが通説であるが、五味文彦氏は金沢北条氏という説を提示している。
 編纂に当たっては、ひとりの編者が全体を編纂したのではなく、複数の幕府奉行人(事務官僚)が編纂に従事したことは間違いあるまい。編纂の主材料は、幕府問注所執事大田康有の日記『建治三年記』や『永仁三年記』のような幕府官僚の記録、彼らの文庫に蓄えられた儀式次第・名簿のような雑文書であった。補完史料として『明月記』などの公家の日記や諸家・諸寺社の文書なども利用された。これらを年月日順に切り張りするような形で並べ、それをもとに記事を作文して「地の文」と呼ばれる文章を作り、必要に応じて文書や諸行事の参加者名簿などを引用する編纂方法が採られている。『吾妻鏡』全体をみると、時代が下れば下るほど引用史料が多くなり、「地の文」は少なくなる。逆に源平内乱期などは頼朝の発給文書、頼朝に宛てられた文書が引用されるほかは、「地の文」で埋め尽くされている。これはもちろん史料の残存状況とそれに応じた編集方針の違いに起因するものである。「地の文」は編者によって作文されたものであるから、編者の誤解があったり、使われている語句が鎌倉末期の状況をふまえたものである点などに留意する必要があるが、「吾妻鏡体」とも称される変体漢文の文体は流麗で、「叙事巧妙にして、文章頗流暢なり、恰も源平盛衰記や平家物語を読むが如く、将た日本外史を読むが如く、文学的将軍実記とも云ふべきものなり」と八代氏が賞賛するのも頷ける。
 編纂物が原史料をもとに後年意図的に編まれたものである以上、誤りは避けられない。『吾妻鏡』も例外ではなく、単純な誤りや誤解はもちろん、意図的な曲筆と思われる部分もある。比較的単純なものとしては、寿永2年(1183)2月に起こった志太義広の乱を養和元年(1181)閏2月に入れてしまってことなどに代表される「切り張りの誤り」や、集めた編纂材料そのものが偽文書だった元久2年(1205)の源実朝文書の例(実朝の花押が据えられた下知状という珍奇な様式をとる大三島文書を引用している)などがあり、複数のフィルタがかかっているために、筆を曲げていると断じられてしまう部分もある。しかし、「所詮『吾妻鏡』だから・・・」と言って済ませてしまうわけにはいかない。言うまでもなく、まず『吾妻鏡』にはどう書かれているのか、『吾妻鏡』からどれだけのことがわかるのかをきちんと明らかにした上で、他の史料との突き合わせ、史料批判などを行って歴史事実を追究する態度をとることが必要だろう。『吾妻鏡』の誤りを列挙して、一等史料ではない上に北条氏のための曲筆が多く公平さを欠くと断じた八代氏も、その最終的評価を「鎌倉時代の根本史料として価値を失はざるのみならず、恐らくは之に比敵するものあらざるべし」の一文で締めくくっているのである。
 「中世史研究は『吾妻鏡』に始まり『吾妻鏡』に終わる」とまで言えるかどうかはわからないが、『吾妻鏡』には尽きない魅力があふれている。

【関連資料案内】
 比較的入手可能な活字本には北条本を底本とする新訂増補国史大系『吾妻鏡』普及版全4冊(吉川弘文館)や吉川本を翻刻した国書刊行会編『吾妻鏡』全3冊(名著刊行会)があり、読み下し本には龍粛訳注『吾妻鏡』1〜5(岩波文庫、未完)、貴志正造訳注『全訳吾妻鏡』全6冊(新人物往来社)がある。御家人制研究会編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)は『吾妻鏡』を読むときの必需品。登場人物のデータを集めた安田元久編『吾妻鏡人名総覧』(吉川弘文館)もある。

(拙稿「歴史記録への招待4 『吾妻鏡』」『歴史読本』1999年4月号より)


北条本『吾妻鏡』について

 江戸幕府の紅葉山文庫を引き継いだ内閣文庫が所蔵する『吾妻鏡』の写本(重要文化財)は、小田原開城の際に北条氏から黒田孝高に贈られ、慶長九年(1604)に孝高の子長政から徳川秀忠に献じられたと伝えられていることから、「北条本」と称されている。家康の命で刊行された慶長古活字本やその後刊行された版本のもととなり、今日『吾妻鏡』のテキストとして最も流布している新訂増補国史大系本(吉川弘文館)の底本としても知られている。
 北条本は、縦26.8、横20.0センチメートルの袋綴装で、巻45の1冊を欠く51冊からなっている。各冊には藍色表紙が付され、首尾一枚ずつの遊紙を施して、本紙には各頁9行の墨界を引き、1行19字を配すという形態をとっている。様式的には均一に見える北条本も、紙質からみると、(1)黄を帯びた上質の楮紙(表面をたたいてなめらかにした打ち紙)を用いているオリジナルの巻(32冊)、(2)加えて全体に薄紅色で横に柿色のすだれ目がある紙(修善寺紙)を用いた補写・補入を行っている巻(10冊)およびすべて補写紙を用いた巻(1冊)、(3)白粉入りかと思われる白色が強い楮紙を用いている新写の巻(8冊)に分けられる。
 (1)の成立は文亀〜天文年間(1501〜55)で、巻一の巻頭には、同じころ別人が書写した目録(金沢文庫本を応永11年に書写した本の転写本)・諸系図に、鎌倉年代記を書き加えて合綴している。それから間もない時期に、島津家本系統の本による補写や吉川本系統の本による校閲が加えられた(2)が作成されたと思われる。この(1)(2)を手に入れた徳川家康は、慶長8年、これを底本とする『吾妻鏡』の刊行準備を始めるとともに、欠落している巻の収集に努めた。その結果、黒田長政からの献上本など新収書を写し直した(3)が成立し、慶長10年の古活字本開版に至ったと考えられるのである。そうしてみると、北条本の名の由来となった小田原北条氏伝来の『吾妻鏡』は新写8冊の一部に反映されているに過ぎないと言うことになる。
 以上の詳細については、井上聡・高橋秀樹「内閣文庫所蔵『吾妻鏡』(北条本)の再検討」(『明月記研究』5、2000年11月)をご参照いただきたい。
(三浦一族研究会編『三浦一族史料集』吾妻鏡編II、2002年3月、口絵解説より)


清元定本『吾妻鏡』について


 東京大学史料編纂所が所蔵する室町時代の古写本4冊である(架蔵番号0176-2)。
 装訂は袋綴冊子本で、いずれも薄茶色の原表紙を有し、裏表紙には「元定」の署名がある。第1冊は墨付15丁で治承5年(1181)〜元暦元年(1184)の抄出本、第2冊は墨付18丁で建久6年(1195)の抄出本、第3冊は墨付23丁で暦仁2年(1239)の完本、第4冊は墨付50丁で建長6年(1254)の完本となっている。第2冊は明応5年(1497)9月2日に書写され、第4冊は文明14年(1482)10月27日に「朝散大夫清原元定」によって校合されていることが奥書からわかる。筆者清原元定は儒者の家柄の出身で、室町幕府の奉行人として活動した人物である。第1冊にある16点の紙背文書も、元定の奉行人としての活動を裏付ける内容をもっている。
 本書は、1950年に史料編纂所が古書即売会で購入したというが、「月明荘」の印記から古書肆弘文荘反町茂雄氏の手を経ていることがわかる。それ以前は卜部吉田家の旧蔵書であったと考えられているが、1949年に売却された吉田家旧蔵本の書名と前後の事情を記す反町『一古書肆の思い出』(平凡社)や『CD-ROM版 弘文荘待價古書目』(八木書店)に本書のことは見えない。
 さて、ここに掲げたのは第3冊、三浦義村の卒去を伝える延応元年(1239)12月5日条である。この記事は吉川本と北条本との間に字句の異同があり、北条本が「前武州向故駿河前司第、令訪彼賢息等給」としているのに対して、吉川本は「前武州向故駿河前司旧跡、令訪子息給」としている。口絵の清元定本は吉川本と同じ本文であり、この冊全体を見ても、北条本よりは吉川本に比較的近い系統の本であることがわかる。しかし、吉川本が「酉刻」としているところを「未刻」としているなどの異同もあり、部分的には島津家本に近い箇所もある。また、やや墨色の異なる筆で「酉イ」と異本で校合した旨と「三浦」の文字を書き入れており、より吉川本に近い『吾妻鏡』で校合した跡が見られる。
 室町時代、人々は『吾妻鏡』にほとんど関心を示しておらず、本書のように数年分の抄出本や完本の形で断片的に伝来しているのが、室町時代の『吾妻鏡』の姿であった。右田弘詮によって収集が図られて吉川本に結実するのは、本書の書写より3、40年後のことである。
 なお、清元定本については、村田正志「吾妻鏡の一古写本」(『国史学』58、1952年)、前川祐一郎「室町時代における『吾妻鏡』」(『明月記研究』5、2000年)に詳しい。
(三浦一族研究会編『三浦一族史料集』吾妻鏡編III、2003年3月、口絵解説より)


江戸時代の『吾妻鏡』について


 徳川家康が収集し、新たに書写させた『吾妻鏡』(北条本)は、慶長十年(一六〇五)三月、古活字版五十二巻(うち巻四十五欠)として冨春堂(京都の医師、五十川了庵)より刊行された。伏見版と呼ばれるこの古活字本は、十二行の界線を引き、一行二十字の木製活字で印刷された本で、外題には「東鑑」、内題には「新刊吾妻鏡」と記され、相国寺僧承兌の跋文が付されている。この古活字本の刊行は、『吾妻鏡』の流布に大きな役割を果たした。
 寛永年間に木製活字本から版木を用いた整版本へと出版形態が移り変わる中、『吾妻鏡』も寛永三年(一六二六)に伏見版を底本とする整版本が刊行された。初印の献上本と考えられる内閣文庫所蔵紅葉山文庫本五十一冊のほか、二十五冊に合冊した一回り小ぶりの美濃紙半裁の大本が刊行された。それが口絵に掲げた寛永版『吾妻鏡』である。
 家康側近の儒者林羅山の巻末跋文によると、菅玄同と弟聊卜が羅山のもとを訪れ、流布しはじめた『吾妻鏡』に記載されている地名・人名をはじめとする呼称などが読みやすいとは言えず、文字の誤りも多いので、聊卜が本文の傍らに倭訓を付して刊行したい旨を述べたという。この跋文の後ろには「寛永三年三月日、菅聊卜刊正」の刊記がある。
 菅玄同(得庵)は播磨国の出身で、羅山に儒学を学び、後には藤原惺窩の門弟となった学者であるが、弟の聊卜については詳しいことがわかっていない。
 この寛永版は、京都の書肆杉田良庵によって後刷版が刷られ、さらに寛文元年(一六六一)には野田庄右衛門に版元を移して刊行された。また、寛文八年にはさらに読みやすくした平仮名本が将軍徳川家綱の命で刊行されている。
 さて、寛永版『吾妻鏡』の特徴は、何と言っても訓読が付されている点にある。龍粛訳注『吾妻鏡』(岩波文庫)がこの寛永版の訓読を参照して読み下し文をつくったのをはじめ、寛永版に基づく『吾妻鏡』のよみは、今日に至るまで大きな影響を与えている。しかし、最近になって国語学の分野から、『類聚名義抄』などの十二〜三世紀に成立した古辞書には見えない訓もあり、中世の訓読を必ずしも反映したものではないことが指摘されている。 
 なお、江戸時代の『吾妻鏡』の刊行については、『振り仮名つき吾妻鏡』(汲古書院)所収の阿部隆一「解題―吾妻鏡刊本考―」が詳しく、本解説もこれを参照した。
(三浦一族研究会編『三浦一族史料集』吾妻鏡編IV、2004年3月、口絵解説より)